書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『東京スタンピード』森達也(毎日新聞社)

東京スタンピード

→紀伊國屋書店で購入

「人間の愚かさをわかっちゃいるけど、見つめることをやめられない」

 ノンフィクション作家、森達也の最新刊。これまでのノンフィクション取材で収集した情報と、森自身の体験と実感をベースに、近未来の東京で発生するジェノサイド事件を小説としてまとめた。森のノンフィクション作品になじみのある読者であれば、この架空があたかも発生し、これに当事者として巻き込まれながら取材した記録を読んでいるような感覚を味わうことができるだろう。
 主人公はロスジェネ世代のテレビ制作会社勤務の「伊沢」39歳。この伊沢は、ほとんど森自身と同じキャラクターである。普通の人達の行動と思考パターンから、なんとなくずれていく感性をもちながらも、自分のことを普通の人間であると認識している。特段優れた能力があるわけではない。使命感があるわけではない。中途半端な人間。成り行きでで就いた職業がテレビディレクター。この成り行き感覚で、「伊沢」はテレビ業界のいい加減さを独白しながら、東京で発生しつつあるジェノサイド(虐殺)事件に巻き込まれていく。

 主体的に行動しない。突然の携帯電話、唐突な訪問者が、伊沢を事件に誘う。伊沢はトラブルメーカーではない。トラブルメーカーたちが、伊沢を通過していくのだ。まさに現実の森と同じである。

 通り魔殺人や理由なき不条理殺人がマスメディアを通じて大きく報じられている。統計的には、日本国内での殺人事件の発生率は減少しているのだが、人々の意識は殺人事件の凶悪化と増大がすり込まれている。マスメディアと視聴者たちが共同でつくる幻想が、現実を作り出していく。凶悪事件は増加していく。この現実と虚構の連続性をひょいと飛び越えるために小説という手法は有効だ。科学的には証明されにくいが、マスメディアの煽りによって、殺人事件が増加していくという実感はたしかにある。

 数年前に大阪で小学生を惨殺した宅間という男がいた。法廷で、自分のような人間がもっと現れるだろう、という不規則発言をして遺族感情を逆撫でしたが、この宅間の予言は当たった。当たった、と言いうるだけの、質と量をともなった凶悪事件は起きている。

 本書では、ある夏の日に、東京で自然発生的に虐殺事件が起きる。

 死者3400人。行方不明6000人。重軽傷者2万4000人以上。逮捕者は東京だけで1400人。

 伊沢は、匿名の暴徒に暴行されて骨折する。重軽傷者のなかの1名になった。この騒動のなか、ジェノサイドを止めようとした秘密結社のリーダーは暴徒に殺害される。繊細な感性を持った映画監督の友人は自殺する。日本人同士が理由なく殺し合う描写は、過去の世界史で起きた数々のジェノサイドを彷彿とさせる迫力がある。

 虐殺の加害者は、善意ある普通の人達が組織した市民パトロールと民間警備会社、そしてご近所さん。あまりにも加害者が多いと処罰は難しい。

 伊沢の同僚のテレビマンはこう嘆く。

「もしも国民全体が犯罪者になったとしたら、法はもう機能できないというわけだ。つまり近代法治国家は、社会の多数派は善良で法に触れるようなことをしないという前提がなければ成立しないというわけだ。当たり前といえば当たり前だけどな」

 普通の日本人が集団化して、理由なく殺し合う可能性。

 それを想像してみませんか? と森は小説で語っている。

 テレビは殺人事件に興奮する。仕事として視聴率を獲得するために事件を詳細に伝える。それを見た視聴者は、不安と恐怖で過剰なセキュリティ意識をもつ。その負の感情が感染していく。警察の警戒が強化される。犯罪報道の視聴率がアップする。不安と恐怖はますます増大する。普通の人々の心のなかにジェノサイドへの意識が用意される。

「わかっちゃいるけど、やめられない」

 暗喩としてのキャラクター植木等が話すフレーズが、奇妙にリアルに響く。

 森はノンフィクション作品と同じように、人間は愚かだが、人の優しさを信じる、という言葉を伊沢につぶやかせている。

 まるでお経のようである。

 人間の愚かさをわかっちゃいるけど、見つめることをやめられない。


→紀伊國屋書店で購入