書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『排除と差別の社会学』好井裕明・編集(有斐閣)

排除と差別の社会学

→紀伊國屋書店で購入

「私たちは差別の当事者だが、善意の第三者の演技をしているだけだ。」

 障害学の研究会を、私が生活している浜松(静岡県)で立ち上げようと思っている。
 障害をめぐる現実や言説を、社会学の視点で読み解き、差別や排除をなくすための知恵を学び続けるために、障害学というプラットホームが必要だと考えたからである。

 私の関心があるビジネス領域は、排除と差別とかかわりが深い(という予感がある)。差別についての理解と対話の場をつくり、そこから新しいコトを起こしていきたい。

 とはいったものの、差別や排除について、事実に基づいて語り合うことは容易ではない。

 どの地域、どの時代でも排除と差別はあるのだが、適切な議論が発生し、それが記録されることはきわめて希だ。したがって、同じような排除と差別が再生産されていく。

 ビジネスの現場では、PDCAサイクルをまわして、すこしでも効率的に目的を達成し利益を出す方法論と、心構えがある。定式化されて、情報過多になってうんざりするほどだ。そんな知恵をもっているビジネスマンも、排除と差別の現場に迷い込む(好きでそのような場に立つ人はいない)と、無邪気な子供のような失言をしてしまったりする。差別の現場から逃げてしまう。自分は何の差別感情もない善意の第三者です、とバリアーを張る。被差別の立場にいる人から、批判されると、論理的に答えることができない。それは差別の構造について学ぶ機会がないゆえに生じる悲喜劇である。

 排除と差別をできるだけ少なくして、自分も他者も生きやすくする工夫はできる。差別を少なくするための改善はできる。

 差別をなくすためには、差別する気持ちのない清らかな心にしなければならない、と思いこむ必要はないし、そのようにしていると自分の心を偽る必要はない。差別とは、自分の心がけで消えるようなものではないからだ。

 本書は、排除と差別の構造を知るためのよきテキストである。編者は好井裕明氏。差別について多数の著作を発表されている。

 取り上げられている排除と差別の事例は、ジェンダー、男性同性愛、女性同性愛、障害者問題、ハンセン病問題、ユニークフェイス、社会的引きこもり、フリーター差別、外国人問題、被差部落問題。ひとつひとつは複雑で固有の問題だが、共通しているのは、真正面から語るための言葉が不足していること。

 好井氏は「『差別をしてはいけません』を確認するだけの教育や研修は、いまの世の中では、ほとんど実効性を失いつつある」という問題意識に立っている。同感だ。

 ひとりの人間の内面にある、他者を比較・差別してしまう心情と、社会の構造を知ることから、排除と差別のない社会の模索が始まる。そういう立場から編集されている。

 私は、ユニークフェイス問題について講演する機会がある。そのなかで、いつも歯がゆい思いをするのは、聴衆のなかから、「外見による差別をしたことがある」という経験を誰1人語らない、ということだ。

 ブス、ブサイクと友人をけなした記憶のない人はいないのではないか。その小さな体験が差別といえるのか。言われた側は差別されたと認識するのか。

 外見差別をしたことがない人間はいない。みなひとりひとり差別の当事者である。これは普遍的な事実だと私は考えている。しかし、容認したくない人もいる。

 なぜ日本女性は美容整形とメイクとダイエットに走るのか。それは美を求める行為であるだけでなく、差別されることから自分のアイデンティティを守るための手段になってはいないか。だとしたら、差別する「犯人」はどこにいるのか。

 このような議論をしたいのだがが、実現したことはない。一部の論客をのぞいて。

 多くの人は差別に無縁の善意の第三者という演技をする。この演技力はまことにすばらしい。どこで練習したのですか?と聞きたくなるほどに。

 私自身は、誰かを差別することがある。差別されることもある。善意の第三者になれることもある。ある人が破滅することを知りながら、傍観者に徹することもある。人間は、当事者と、傍観者の複合体である。

 その複合体としての自分を知るためには、排除と差別という鏡はたいへん便利な道具である。

 その鏡は、いつもひび割れており、鏡に映る自画像はつねに歪んでいるのだ。だから、差別の実像はいつも断片的にしか把握できないのだが。

それでも私は、差別の断片を拾い集めては、ジグソーパズルをつくる。破片で手を切ることもあるのだが、本書があれば安全である。

差別から身を守るための知恵がここにある。


→紀伊國屋書店で購入