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『ボードリヤールという生きかた』(NTT出版)

ボードリヤールという生きかた

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ボードリヤール入門に最適」

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ボードリヤール入門に最適」

日本では初めてのボードリヤール論である。考えてみると、あれほどまでに名高くなったボードリヤールのモノグラフィーがこれまでなかったというのも不思議なことである。著者の塚原氏は、ボードリヤールの多数の書物の邦訳を担当してきた経緯もあって、この書物を著したらしい。ボードリヤールとのつきあいの深さを感じさせるとともに、ボードリヤールの思想の経歴をわかりやすく概観する書物となっている。

ボードリヤールの思想的な歴史をたどると、三つほどの大きな山があると思う。生産概念の批判批判、シミュラークル論、現代批判である。まず最初の生産概念の批判批判では、西洋の近代の重要な概念である生産の概念をバタイユに基づきながら批判する。ぼくたちはつい思想についてまで「生産的」という言葉を軽々しく使ってしまうが、生産という営みには重要な含意が含まれる。あるものを作り出すことがそれだけで「善い」ことだということが、なかば無意識的に前提されているのだ。

しかしものを作り出すことは、つねに善いことであるわけではない。市場にあふれている商品を生産するためにはエネルギーを必要とし、これを廃棄物として処分するためにもまたエネルギーを必要とする。消費されたエネルギーは地球にとっては大きな負荷となるものである。

近代において生産という概念が重視されたことには、人間の本質を労働という営みのうちにみなしたマルクス主義の伝統があるが、これは有用性を重視する近代の「道具的な」理性にふさわしい概念であり、マルクス主義だけではなく、資本主義の社会そのものの根幹にあるものだ。ボードリヤールはこの生産の概念がもつ人間学的および神学的な伝統をするどく暴き出した。

またシミュラークル論では、シミュラークルの三つの時代の区別がわかりやすい。第一のシミュラークルは、現実を「模造」する営みである。自動仕掛けの人形のように、人間の営みを模倣する道具を作り出そうとするのだ。近代の初頭には、歯車で動く人形が珍重されたものだったが、これは「アナロジーと幻影の効果」(p.108)によって、人間を再現しようとしたものだった。

第二の営みは、技術的な大量生産によって、現実を模倣し生産しようとするものである。鉄腕アトムは一人しかいないが、ソニーのアイボのようなペット・ロボットは大量に生産することができる。鉄腕アトムにはまだアウラがあるとしても、尻尾を振るアイボにはもはやオリジナルとしてのアウラはなくなっている。

第三の営みは、オリジナルなしに現実のシミュレーションを作り出すものだ。作り出された世界は、模造ではなく、すでに現実と同等のものとなりおえている。これを象徴するのが、映画『マトリックス』だった。この映画はボードリヤールの著書を参照して作られたものだったが、現実を超えるシミュラークルの世界のリアルさを味わうことができた(ちなみにボードリヤールはこの映画はまだ現実と現実でないものという二元論に依拠していると、批判的だという。ボードリヤールが好きな映画は『トゥルーマン・ショー』と『マルホランド・ドライブ』だという。とくに後者を愛好しているそうだから、物語の筋が完全に破綻してしまっている(笑)作品が好みなのだろう)。

最後に最近のボードリヤールは、この現実でない世界が現実を超えてしまったことから倦まれるさまざまな帰結を語って倦むことがない。シミュラークルが現実を上回るリアルさをもってしまったため、近代社会の根幹を支えてきた基本的な対比概念、すなわち「主体と客体、現実と幻想、肯定性と否定性、あるいは善と悪」(p.202)などの概念の枠組みが崩壊してしまう。そのために道徳や倫理そのものが意味を失いはじめる。

そしてぼくたちはこの非現実的な現実の世界のうちで、主体として行動することができない空しさを味わいながら、ときに死の衝動につきうごかされることになる。9・11のテロの際に、崩壊するツインタワーをみながら、どこかに喝采する気持ちがあったことを告白した人々は多いが、その背景には自分を含めた世界の崩壊を無意識のうちに待ち望んでいるぼくたちの精神状態があるのかもしれない。ボードリヤールが指摘するように、「それを実行したのは彼らだが、望んだのはわたしたち」(p.205)かもしれないのだ。

書誌情報

ボードリヤールという生きかた

塚原史

NTT出版∥NTT

■2005.4

■246p ; 19cm

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