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『半島を出よ〈上〉』村上龍 (幻冬舎)

半島を出よ〈上〉 →紀伊國屋書店で購入

「[劇評家の作業日誌](8)」

 小説を読むことが少なくなった。演劇書以外の評論やエッセイに比べると、小説の読書量はほんとに微々たるものにすぎない。それでも同時代の作家のなかには目を離せないと思う者も何人かいる。その一人が村上龍だ。
 彼の小説はこれまでも折りに触れ読んできた。『コインロッカーベイビーズ』や『愛と幻想のファシズム』『13歳のハローワーク』は、日本の現実を考えるときの格好の素材を提供する。同時に、彼のもつきな臭さは、芝居を批評する身にとっては捨てがたい魅力でもあった。現実を切り裂こうとすれば、どうしても現実に対して泥まみれにならざるをえない。つねに観客という現実を眼前とする演劇もまた同根の属性を持つからだ。現実と同衾しながら異夢を見る。こうした離れ業こそ、現代を生きるアーティストの生命線だろう。
 その彼が書き下ろした最新作『半島を出よ』は、やはりきな臭さが残るスキャンダラスな内実を持ったものだった。この小説を手にする前に、わたしはある記事を目にしていた。
 「……そんな矢先、村上龍『半島を出よ』上、下(幻冬社)刊の大新聞の大広告を見て、作家も出版社も遂にここまで堕ちたかと愕然とした。(略)北朝鮮軍が九州福岡に戦争をしかけて来襲、日本と戦争状態になるという『痛快無比のエンターテインメント巨篇』だそうだ。『半年や一年後に事件が起こっても不思議ではない』などの批評文までご丁寧にのせているが、小説を読まずとも、この“巨篇”が北朝鮮敵視政策をあおり、戦争をゲーム化することで真の現実から目をそむけさせ、日本の軍備増強・憲法九条改悪への地ならしの役割を果たすことは火を見るよりも明らかだろう。戦争を“痛快無比”に描く人間と、それを売る人間の神経を疑う。」(「影書房通信」 No.26)
 わたしはこの評者のようにジタバタしなくてもいいだろうと思う。所詮、小説はフィクションであり、グローバリゼーションのなかで「北朝鮮」も「戦争」もアイテム商品なのであって、読者はもっと賢く対応していると思うからだ。小説の影響を過大に評価することが、かえってその風潮をあおることに手を貸すのだ。問題なのはこの風潮に対してシニシズムに陥らないことである。
 けれども別の評者のようには受けとめない。
 「長い小説だ、上下巻あわせて一六五〇枚。量感に圧倒されるかもしれない。しかし 『半島を出よ』は、その長さに値する。」(関川夏央朝日新聞」5月22日付)
 果たしてそうだろうか。正直言えば、わたしは一度中途で投げ出した。読み始めて、読み切るまで、ずいぶん時間がかかった。それでも上巻は三、四日で読みおわったが、下巻を読み切るまでにその数倍かかっている。なぜ、どこに躓いたのだろう。そこでたどってみると、ある箇所にぶつかると、きまって読む速度が停滞することに気が付いた。
 この小説の概要は以下の通りである。二〇一一年四月、北朝鮮のコマンドが福岡を制圧し、臨時政府を置いた。彼らは北朝鮮反政府軍という触れ込みであり、つまり日本は敵対国ではなく、反金正日にとって同志関係なのだ。だが実際はこれは金正日の仕組んだトリックだった。本編は北朝鮮軍の内部、これに応接する福岡の要人や医療センターの人々、遠く東京からどこか事態を呑み込めないまま指令を出している内閣グループが描かれ、これに秘密結社めいた少年たちのカルトグループがからんでくる。政治の暗躍が国家レベルで進行していくさなか、アナーキーでコミューンを営んでいる彼らの存在だけが異様に突出してくるのだ。小説はこれらの登場人物を別々に描き出し、地下でリゾーム状につながるように構成されているのだが、どうも少年たちの章(各章は<phase>という単語で表わされている。)になると、わたしはとたんに躓いてしまうのだ。例えば「死者の舟」の章では拳銃マニアで年長のタケイが延々と拳銃について高説を述べる。これがなんと数十頁も続くのである。わたしはほとんど気が遠くなってしまったが、この長さは必要な長さなのだろうか。しかも作者は、この一団を描くのに力をこめていることは確かだ。作者は自身の<分身>たちを描きこんでいることは明らかだろう。しかも名前がカタカナで表記され、彼らのシーンだけは独特の文体が用いられている。それは一言でいえば、演劇でよく使われる<コロス>の存在なのである。個人のキャラクターを描くのではない。むしろ複数、集団、群衆を無名性として描く時の文体構成を思わせるのである。個人の心理や内面の描写を読むことに慣れている読者は戸惑ったのではないだろうか。もちろん個々の来歴は記されているから、丹念に読み進んでいけば、個人の活躍の場面を追うことはむずかしくはない。が、むしろわたしは、映画の一シーンを映像で追っている気分に見舞われた。さほど広くもない雑然としたスペースに若い男の子たちが集まって、小動物やピストルの話に興じている。だが演劇の舞台では造作もなくつくれるシーンが、言葉だけで描く小説にとっては、実に困難な手続きを必要とするのだ。このシーンをおもしろがれるか否かによって、この作品の評価はガラッと違うものになるだろう。しかもその描写が異常に細かい。この細密画を描くような筆致もまた、舞台のセットを説明するト書きに似ている。そこで想起されたのは、近代戯曲の作家たちのト書きが、それ以前に比べると異常に長くなったことだ。(それに対して、近代以前のシェイクスピアのト書きはほとんどない。彼自身が一座の座長であり、台本を即座に舞台に上げたからという事情があった。)『マイ・フェア・レディ』の原作者で知られるバーナード・ショーのト書きは悠に数頁にも及ぶ。なぜ近代になって劇作家たちはト書きを長く書くようになったのだろう。それは作家自身の頭の中にある世界を舞台の上に忠実に再現したいと思ったからだ。室内の調度品やドアの位置など正確に記したくなった。その結果、近代戯曲は小説に非常に近づいた。正確にいえば、戯曲は上演されなくても文字だけで完結し、読者に読まれる「文学」になったのだ。村上龍の実験は演劇に接している者からすればごく普通に映るが、彼の試みは小説の側から舞台や映像に近接しようとする試みなのだ。
 もう一度、内容に戻ろう。今なぜ「北朝鮮」の反乱軍を描かねばならなかったのか。おそらく作者の狙いはどうしようもない日本人、とりわけ政治統括能力を失った日本を描くことに主眼があったのだろう。その意味では日本(人)にとっての最大の他者は北朝鮮(人)なのだろう。そのなかで少年たちが絶望(というより単に希望を持てなくなった)のあまり、テロに向かわざるをえないのが彼の現実認識である。個々に切り離された若者たちが、にもかかわらず協同性の契機を発見する。それは現実のあまりの俗悪さゆえである。それを悪い冗談とぎりぎりのところで描いたのがこの小説だ。絶望を描くしかなくなっているのが現代芸術の宿痾だとすれば、それがシニシズム紙一重であることに十分自覚的でなくてはならない。

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