書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『ブランショ政治論集:1958-1993』モーリス・ブランショ(月曜社)

ブランショ政治論集:1958-1993

→紀伊國屋書店で購入

「異議申し立ての権利」

これはもちろんブランショの戦前の政治論集ではなく、戦後の政治的な論文を集めた書物である。大きくわけて三つのテーマの文書が集められている。アルジェリア独立戦争をめぐる文章、一九六八年五月「革命」をめぐる文章、そしてハイデガー問題をめぐる文章である。どれも短い文章ながら、ブランショの独特なスタンスをはっきりと示している。

アルジェリア問題に関する文章群で特徴的なのは、ブランショが一人の知識人として、異議申し立てを行う「権利」を明確に意識し、主張していることである。アルジェリア問題についての有名な「一二一人宣言」は、当時の代表的な知識人であるサルトルを巻き込む形で、それまで政治的な発言とは無縁に思われていた知識人たちが異議申し立てを行ったことで注目を集めた宣言だった。

この宣言では最初、「不服従の義務」という言葉が書かれていた。これをブランショの提唱によって「不服従の権利」という表現に変えたのだった。それについてブランショは次のように語っている。

「義務があるとすれば、あとはもう、わき目も振らず、盲目的にその義務を遂行するだけです。そうなればすべては単純です。これとは反対に、権利は、権利そのものにしか送り返されませんし、その表現である自由の行使にしか送り返されません。権利とは、各人が自分のために自分に対して責任をもち、完全かつ自由に自己を拘束する自由な力なのです。これ以上強いものも、これ以上重大なものもありません」(p.51)。

フーコーはかつてパレーシアという概念で、異議申し立てを行う権利を考察したことがあった。これはもともと古代ギリシアのポリス、とくにアテナイで、その市民だけに認められた権利だった。自分の言いたいことを、自分の責任において、あえて語りだす権利である。ブランショがここで主張しているのも、現代の社会の中で、知識人として発言することを「義務」とみなすのではなく、最高度の自由を確保する「権利」とみなすということだった。サルトル宛ての書簡でも語られているように、知識人はこの権利を行使することで、「自分が体現している新たな権力を意識」(p.58)するようになったのである。ここれは「権力なき権力」(Ibid.)であり、サルトル的な知識人の特権とは異質なものだったのである。

一九六八年五月をめぐる文章においては、エクリチュールにたいするぶランショのこだわりが興味深い。ブランショはこれらの政治的な文章を書物として刊行することはなかったが、それはこれらの文章には書物にそぐわない性質があると考えていたからのようである。これらの文章は、有名になったいくかの壁の落書きのように、書物としてではなく、落書きとして、パンフレットとして、スローガンとして書かれ、読まれるるべきものであり、その時代の空間の中で散乱し、消滅してしまうべきものだったのである。

日本でも一九六八年五月にはこうした文章が大学をおおっていたのだった。タテカンをチェックし、ビラをもらい、集会に顔をだすのがぼくたちの日課だった。後にこうした文章は書物化されたこともあったが、それはもはや記念物にすぎなかった。ブランショはこうした文章が書物といかに異質なものであるかについて、こう語っている。

「街路の慌ただしさを反映するビラ、読まれることを必要とせずむしろあらゆる法に対する挑戦であるかのようにそこにあるステッカー、無秩序への指令、言説というものの埒外で歩調を刻むような言葉、叫ばれるスローガン、そしてこのパンフのように一〇頁ばかりのパンフレット、それらはみな攪乱し、叫びかけ、脅威を与え、そして最後に問いを発するが、答えは期待せず、確かさの上に安住しようとはしない。私たちはそうしたものを決して書物のうちには閉じ込めまい。開かれているときでも閉じることへと向けられている、抑圧の洗練された形態に他ならない書物の中に」(p.177)。

『書物空間』と『来るべき書物』の著者であるブランショはまた、書物というもののもつ「罠」の所在にもひときわ敏感だったのである。散逸するにまかされるべき文章が書物に、まとめられるときに、どのような変質をこうむるかについて、鋭い洞察をもっていたのだった。そのブランショの文章が、このように「美しい書物」としてまとめられたのは、ブランショの死後のこととは言え、皮肉なことではある。「この先なおも数多の書物が、始末の悪いことには、美しい書物が現れることだろう」(Ibid.)というブランショの「遺言」に従って、ブランショの政治的な文章は散乱するままに任せておくべきではなかったと一瞬だけ、思わないでもない。

もちろんそう思ったのは、一瞬だけである。というのは三部構成のこれらの文章は、三名の訳者による詳細な解題と訳注とともに、それまで知られていなかったブランショの顔を知らせてくれるものであり、ブランショの文学的な文章を読むためにも、大きな示唆を与えてくれるものだからである。何とも皮肉なことに。

【書誌情報】

ブランショ政治論集 : 1958-1993

モーリス・ブランショ

安原伸一朗,西山雄二,郷原佳以 訳

月曜社

■2005.6

■382p ; 19cm

■内容細目

●第1部(1958年-1962年) 『七月一四日』誌および『ルヴュ・アンテルナシオナル』誌の計画

□訳者解題 文学の力 / 安原伸一朗著

●第2部(1968年) 学生-作家行動委員会そして『コミテ』誌

□訳者解説 「六八年五月」概要 / 西山雄二著

□訳者解題 明日、五月があった、破壊と構築のための無限の力が / 西山雄二著

●第3部(1981年-1993年) ハイデガーレヴィナスユダヤ教、アンテルム

□訳者解題 証言-記憶しえないものを忘れないこと / 郷原佳以

■ISBN  490147717X

■定価  3200円


→紀伊國屋書店で購入