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『何も起こりはしなかった』ハロルド・ピンター[著]喜志哲雄[編訳](集英社新書)

何も起こりはしなかった

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自由民主主義の名の下の人権侵害と言語の危機」

 今ほど、わが国の患者の自由が脅かされていることは過去なかった。

しかし、たぶんこのような私たちの危機感も、恒常化すれば議論にすらならなくなるにちがいない。

日本の医療もやがてまともな治療を享受できぬ者を大量に生み、法と自由の名の下に人々を差別化していくことになる。というのも、医学系学会は軒並み一方的で一面的な治療停止指針を盛り込んだガイドラインを策定中で、無言の患者の生命を毟ろうとしているからだ。

 たとえば、救急隊が現場で救命しなくなっては何が救急だと私は言いたい。

 また一部の医者や倫理学者は自発呼吸のない者から人工呼吸器を外し取るために、病人に一筆念書を書かせることを企んでいる。それを患者の「死ぬ権利」、またの名を「リビングウィル」などと呼ぶのだが、死に権利をかぶせてどうするのだろう。生きる権利を問われぬまま、病人は生きながら葬られているのに。


一般病棟では物言えぬ人のベッドにナースが巡回してくるのは、一日たった6回などというところもある。それ以上はナースを呼んではいけないとさえ言い渡されている。だから、実際は呼吸器を外すまでもなく、痰が詰まって死ぬこともある。ほら、法律を作る手間などいらないのだ。

 もしも、本当に患者の視点に立つのなら、医療における作為的な行為の是非ではなく、むしろ不作為の行為にこそ注意を向けるべきであろう。無言の患者の多くは、ほどなく「自然に」死んでいくからだ。そうして日々大量無差別にこの国の人々は、病院や自宅で不作為、すなわち「自然」に殺されているのだが、「何も起こりはしなかった」ことになっている。

しかし、たまに現実が表面化すると途端に不味いことになってしまうから、書面と法をもって患者に死ぬ権利与えようなどということになってしまう。

さて書評にうつろう。題名はまさに『何も起こりはしなかった』。

アメリカには1980年台後半に約2年間、イギリスには1990年代の初頭に3年半ほど私もお世話になったのだが、その両国がこれでもか、とばかりにこき下ろされている。

この書は2005年度のノーベル文学賞受賞者、ハロルド・ピンターが、ユーモア溢れる演劇的センスと下品極まりない言葉を駆使して、アメリカとその「属国」となった母国イギリスを批判し続けてきた発言記録集である。

ノーベル文学賞授賞記念講演をはじめ、国連や各地での講演、チャンネル4、『ガアーディアン』、『オブザーバー』フィレンツェ大学や下院での演説、ヨーロッパ演劇賞授賞式前日に行われたマイケル・ビリトンによるインタビュー「劇作家として」などが収録されていて、短編ばかりだから読みやすい。

たとえば、メジャー雑誌のほとんどが掲載を躊躇したという「アメリカンフットボール湾岸戦争に思う)」の凄まじくお下劣な詩の一節。

ハレルヤ!

これはいける。

おれたちはやつらのクソを吹きださせた。

おれたちはクソをやつらのケツに吹きもどし

やつらのオマンコくさい耳からふきださせてやった。

「当時広く認められた勝利主義、男らしさの誇示、戦勝記念行進などといったものから生まれた」というこの詩は、メディアに持ち込まれるたびに掲載を断られたのだが、編集主任たちの個人的意見は別にあった。つまり、彼らの中にはこの詩を読んだ途端、全面的に賛同し同感する者もいたのだ。だが、編集部に持ち帰って「同僚と話し合った上で」掲載には至らない。その繰り返し。

メディアはそう。書けないのだ。それにもっとも掲載すべきこと、大事なこと、現実に起こったことが掲載できない。そして、それらは「何も起こりはしなかった」ことになっていく。

言葉を操って闘うべき人たちが本来の力を失っている。(ハロルド。私も同じ気持ちよ。)

だから、ハロルドは有名メディアに次々とこの詩を持ち込んだ。

「私は卑猥な言葉を使っているが、それは卑猥な行動や卑猥な態度を描写するため」だとばかりに。

そうした彼の一連の行動は「メディアの実態を暴く」という題名で77ページから収録されている。権力を持つ者たちの言葉は常に上品で小手先のレトリックにより正当化されている。だから、国家による暴力的行為に対抗するテキストは下品で不遜でしかるべきであろう。ハロルドはメディアや言葉を駆使して戦う者たちに対して、どのように言葉を扱うか、お手本を見せたのだ。さもなければ作家は政治家になるしかない。

「真実を書くためには、恐ろしいほどの障害が現にありますが、私たちは市民として、自らの生活と自らの社会の真実を、ひるむことなく、ためらうことなく、知的決意を毅然と働かせて捉えようとすること―それが私たち全員に課せられている、決定的な義務なのだ、と私は信じています。」(ノーベル文学賞受賞記念講演)


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