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『古代ギリシア--地中海への展開』周藤芳幸(京都大学学術出版会)

古代ギリシア地中海への展開

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ギリシアをめぐるメタナラティブ」

本書は京都大学学術出版会のシリーズ「諸文明の起源」の第七冊目にあたる。このシリーズは廉価な価格設定で、考古学的な発見を中心に、新しい知見が確認できるので、お勧めである。本書は、古代のギリシアを地中海の全体の中に位置づけようとするもの。古代のギリシアについてはその特異性に注目するあまり、そして西洋の文明の重要な起源として、さまざまな概念の源泉になってきたために、かえって分析が困難になってきたために、「ヨーロッパ文明は古代ギリシア文明の直系の末裔である」(p.31)というような素朴な思い込みが支配的だった。

著者はこれを古代ギリシアについての「メタナラティヴ」と呼ぶが、ルネサンス以来、とくにドイツでのギリシア崇拝が、古典学を大きく規定してきたのはたしかだろう(ぼくもその弊害から免れていない)。著者は時代的にミケーネ文明との連続性(p.77)、地中海世界の他の地域との共通性を示しながら、この物語の打破を試みる。これは現代の古典学の新しい傾向の一つとして注目される。

この書物ではとくに著者が実地に訪問した各地の考古学的および地理的な調査と写真が啓発的である。とくに興味深い指摘をあげておこう。まずポリスと植民市の建設について、「政体としてのポリスは前七〇〇年頃に現れるが、都市センターとしてのポリスが出現するのは、前六世紀になってからのことである」ことを確認した上で、「早い段階で都市化を遂げたポリスが、通商や傭兵の定住を含む広義の植民活動に積極的に緩和したポリス、もしくは植民しそのものであった」(p.154)ことである。

これが意味するのは、ポリスに内在する問題を解決するために二つの道があったということである。前古典期のポリスでは、社会の発展の内部が共同体の内部で意見が分裂した場合には、「これを植民団として外に送り出すことによって問題を解決していた」(p.163)。だから前六世紀になってポリスの政体が安定すると、植民活動は終息するのである。

しかしもう一つの方法として、キュレネのように「市民を出身地に基づいて三部族に分けるとともに、王権を制限して市民の権力を増大させる」という方法も可能だった。国制改革によって市民の不満を緩和することで分裂を避けることもできたのである。アテナイやスパルタが植民しなかったのは、ソロンの改革やリュクルゴスの改革で「独自の国制を確立していった」(ibid.)からであることは興味深い。「植民ではなく国制改革で共同体内部の問題を解決したポリスこそが、古典期に強国としてさらに発展していく」(p.164)結果となったからである。

またアルファベットの採用についての考察もおもしろい。線文字Bはひらかなのような音節文字だったが、ある時期に、おそらく一人の人物によって、フェニキア文字が採用された。それは子音がつづくことの多いギリシアの言葉をさらに正確に再現するために必要であり、著者はそれが『イリアス』と『オデュッセイア』を文字で記録するためだったというパウエルの説を紹介している(p.184)。音節文字でも不可能ではなかったろうが、音節文字を採用している日本人がどんな子音にもつい母音をつけて発音しがちであることを考えると、アルファベットの採用と、母音の表記の改革が重要な意味をもったのは納得できることだ。

ディオニュシア祭についての詳細な説明もわかりやすい。アテナイ中心市での祭りと、「在地ディオニュシア祭」の関係について、アリストファネスの『アカルナイの人々』を中心にした分析も楽しめる。デーモスで行われたディオニュシア祭は、中心市にたいする地方のデーモスの自律性のよりどころとなったのであり、「ペロポネソス戦争という非常時に顕在化した中心市と在地デーモスの緊張関係」が、この戯曲で表明されたことになる。

ロドス島のアンフォラのスタンプと、エジプト小麦の産地のアコリスの分析もおもしろい。。ロドス島のワインは質が高くないのに、アコリスで多量に発見された理由について、それはエジプト小麦の「帰り荷」(p.372)だったという指摘には、目を開かされた。たしかにそうだろう。あの裸の島でそんなにいいワインがとれるわけもない。しばらく滞在していて、すっかり気に入った島ではあるが。

本書はいろいろなテーマをとりあげているので、ときに説明が簡略になりすぎることもある。たとえばパルテノンは建築学的には神殿であるが、「その機能においては、むしろ今日の中央銀行に近い存在だったのである」(p.202)という指摘は、フォローがないのでわかりにくい。今日の古典学の重要なテーマであるジェンダー論とセクシュアリティ論についても、掘り下げが足りないという印象をうけるが、著者の専門を考えれば、注文しすぎというものだろう。

ただ、ギリシアの住居の間取り図をしみじみ眺めていると、家の中は女性が仕切っていて、家の一室に閉じ込められていたのは男性であることは、実感できる。男性はポリスの政治的に空間を活動分野としたのであり、「ジェンダーによる空間の区別は家の内部においてではなく、家の内と外との間で成立していたと考えるべきである」(p.319)という指摘はもっともだろう。

各章ごとの参考文献の説明もていねいで、親切だ。ただし後書きで「必読文献」としてあげられているサイドボトムの訳書と、併記されているハンセンの訳書については、なぜか文献リストに記載がないので、ここで補足しておきたい。ハリー・サイドボトム 『ギリシャ・ローマの戦争』(吉村忠典, 澤田典子訳、 岩波書店 2006)とヴィクター・デイヴィス・ハンセン『図説古代ギリシアの戦い』(遠藤利国訳、東洋書林 2003)だろう。

【書誌情報】

古代ギリシア地中海への展開

■周藤芳幸著

京都大学学術出版会

■2006.10

■15,435p 図版4p ; 19cm

■学術選書 ; 16 . 諸文明の起源 ; 7

■4876988161

■定価 1800円

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