書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『聖なる共同体の人々』坂井信生(九州大学出版会)

聖なる共同体の人々

→紀伊國屋書店で購入

ウェーバーのテーゼの検証」

 この書物は、アメリカ、カナダ、メキシコに移住した再洗礼派の共同体のルポルタージュであり、アーミシュ、ハッタライト、メノー派の共同体の現在の状況が報告されている。映画『刑事ジョン・ブック目撃者』)で描かれたアーミシュの共同体は圧倒的な迫力だった。とくに村を挙げての納屋の建築と、緊急を知らせる鐘の音に集まる村人たちの姿が印象的だった。

 そして本書によると、あの映画が撮影されたのは、伝統をあくまでも固持する旧派アーミシュのペンシルヴァニア州ランカスターであり、現在でも映画の撮影当時と状況はほとんど変わっていないらしい。

 本書が興味深いのは、こうした「聖なる共同体」で暮らす人々の暮らしぶりの面白さだけではなく、宗教的な伝統を維持した再洗礼派の共同体において、ウェーバーが示したテーゼがどのように検証され、彼が指摘した逆説がどのように回避されるかを明らかにしているからである。

 ウェーバーが『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』で描いたのは、プロテスタントの倫理の宗教性が失われた後に、そのエートスがいかに資本主義の精神を作りだす上で貢献していったかということだった。本書に描かれた共同体では、宗教性を強く維持しているだけに、ウェーバーのテーゼが直接的に検証できることになる。

 ウェーバーのテーゼは三つの基準な要約することができるだろう。(一)修道院の内部ではなく、世俗的な社会で禁欲を維持すること、(二)労働は、神か与えられた召命として神の名を高めるために行われるべきこと、(三)自己の救済はこの労働が禁欲的に行われるかどうかにかかっていること。そして彼が示した逆説は、信徒たちが労働をまじめに行うほどに、その共同体の宗教性が希薄なってゆくというきことだった。これらの共同体はこうした基準を守っているだろうか、またどうやってこの逆説を回避しているだろうか。

 アーミシュでは、「長時間労働にいそしみ、自家製の質素な衣服を身にまとい、この世的な一切の娯楽を慎み、さらに高額な農業機械の使用を禁じる自給自足的禁欲生活」(p.47)が送られていることからも、(一)禁欲の基準に適合していることは明らかである。ただしプロテスタントの禁欲は、必然的に富をもたらし、それが宗教性を薄めるという逆説を、アーミシュは二つの方法で解決している。

 一つは、閉じた共同体の内部で一生を過ごし、外部の誘惑を遮断することである。世俗的な生活を容認しているかぎり、宗教性は薄れざるをえない。これは遮ることができないものである。しかしアーミシュのように外部の者を排除し、共同体の内部で生まれた者たちだけで共同体を維持し、教育も共同体の内部で行うようにし、両親が厳しい宗教教育を担当するならば、そして違反者にたいする厳しい制裁が維持されるならば、この宗教性の稀薄化は避けることができるだろう。

 第二は、ここで生まれた富は、贅沢な用途に消費されるのではなく、共同体の拡大と分封に利用することで、富を有効利用することができることである。アーミシュでは「生めよ、殖やせよ」という原則にしたがって、一つの家族で一〇人ほどの子供たちを出産する。医療の問題で、幼児の死亡率がいくらか高いとしても、多数の子供たちが成年し、新たな農場を必要とするようになる。そのためには外部から土地を購入する資金が必要であり、蓄積された富はそのために活用できる。これは共同体の衰弱を防ぐためにも、重要な役割をはたすのである。

 第二にアーミシュの労働観には、「神の栄光を高める」という目的はみられないという(p.79)。しかし都市を避けて農業に専念することは、「神の定め」であると考えることは、ある意味ではこの基準を潜在的に認めることであろう。また「一生苦しんで、地から食料をとる」農業に従事することが、神の命令であると信じていることも、自己の救済が農業への従事によって確保されることを裏返しにしたものと考えられるだろう。この共同体のうちで暮らし、この共同体の維持に力を尽くすことは、信者としての救いをもたらすと考えられているのである。

 そのことは、「その宗教的理念は成員のエネルギーを経済的成功のみではなく、現世を越えたところで与えられる永遠の報酬をも保証する農業へのひたむきな献身に方向づける」(p.48)とされていることからも明らかだろう。

 このことは、モラヴィア同胞団の流れを汲むハッタライトではさらに顕著である。この集団は、アーミシュとは違って、高度に機械化された農業を営む。そのために共同体の内部に蓄積される富も格段に大きくなる。それだけにわずか百年ほどの間に、巨大な拡張を実現している。一八七四年には三か所のコロニーに四四三名の信徒が暮らしていたが、一二〇年後の一九九六年には、四三〇のコロニーに三万七千名以上の信徒が暮らしている(p.95)。じつに百倍近くまで信徒の数が増大しているのであり、その成長力には驚かされる。ただしその他の面ではアーミシュと同じように禁欲的であり、外部の誘惑から共同体を閉ざしている。

 ハッタライトで特徴的なのは、私的所有を否定し、個人の自己否定を教えこむことである。幼児期から死ぬまでの教育によって、自己実現ではなく、自己否定の重要性が教え込まれる。「個人は謙遜であり、従順であらねばならない」(p.108)と教え込まれ、洗礼までの二〇年の間に信徒は共同体の教えを受容するように期待される。そしてみずからの意思で洗礼をうけなければ、共同体の正式なメンバーとして認められることも、結婚することもできない。この共同体では教育によって「神についての知識を神を恐れること」(p.109)をしっかりと教えられるのである。

 メキシコに移住したメノー派も同じような禁欲の姿勢を維持している。「基本的にはこの世からの分離、成人洗礼、絶対平和主義といった再洗礼派に共通した特徴的な宗教的信念を持ち、単純素朴な生活様式、相互扶助といった伝統的な生活実践を行っている」(p.163)のである。

 この宗派ではとくに信徒の救済に教義の重点がおかれるのが特徴的である。個人としてだけでなく、「ひとりの脱落者もなく、成員全体が集団的に救済されることに大きな力点がおかれている」(p.163)という。基本的にこれらの三つの集団では、ウェーバーのテーゼはほぼ裏付けられていると考えることができるだろう。

 なお、日本の那須山中にハッタライトのコロニーが存在する、大輪コロニーとして、本地のハッタライトから正式に承認をうけているという。ただし数家族だけで構成されるコロニーであり、高齢化を迎えて、内部からの補給だけでは存続が難しくなっているらしい。

【書誌情報】

■聖なる共同体の人々

■坂井 信生【著】

九州大学出版会

■2007/10/10

■218p / 21cm / A5判

■ISBN 9784873789569

■定価 3360円

●目次

序章(はじめに;セクト ほか)

第1章 アーミシュ(アーミシュ略史;宗教的理念と実践 ほか)

第2章 ハッタライト(ハッタライト略史;ハッタライト・コロニーの生活 ほか)

第3章 メノニータス(メノナイト略史;宗教的理念と実践 ほか)


→紀伊國屋書店で購入