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『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』加藤浩子(平凡社)

ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品

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「神話や伝説に覆い隠された大オペラ作曲家の実像」

 今年は、ワーグナーヴェルディの生誕200年に当たっており、世界中のオペラ劇場がこの二人の偉大な作曲家の作品を上演中である(注1)。いや、生誕200年でなくとも、ワーグナーヴェルディの登場しないオペラ劇場などは想像することもできない。書店には関連の本がたくさん並んでいるが、ワーグナーと比較すると新書版のヴェルディはこれまであまりなかったような気がしたので、本書(加藤浩子著『ヴェルディ―オペラ変革者の素顔と作品』平凡社新書、2013年)が目にとまった(注2)。
 ヴェルディが偉大なオペラ作曲家であったことは誰もが知っているといってよいが、「偉大な」人物には色々な「神話」や「伝説」がつきまといやすい。本書の「まえがき」が「ジュゼッペ・ヴェルディは、知られざる作曲家である」(同書、13ページ)という文章で始まっているのを読んだとき、著者の狙いがある程度理解できたが、これだけ有名な作曲家についての実証研究が本格化したのがこの数十年のことだというのは驚きであった。

 神話のひとつは、「ヴェルディ」の名前がイタリア人にとって「リソルジメント」(祖国統一運動)と結びついており、ガリバルディ、マッツィーニ、カヴァールなどの名前と並んで「建国の父」と称されていることである。だが、著者によれば、最近の実証研究は、ヴェルディが意図的にリソルジメントを鼓舞したという事実を否定しているという(同書、62-65ページ参照)。

 なるほど、都合のよいことに、ミラノでの「ナブッコ」の初演時、第三幕の合唱「行け、わが想いよ、黄金の翼に乗って」に熱狂した聴衆が、当時は禁止されていたアンコールを要求したと伝えられてきた。それはオーストリア占領下で苦しんできたミラノの人々の心情にぴったり一致したので、イタリアで「第二の国歌」と呼ばれるくらい愛されたのだと。

 だが、「ナブッコ」の批判校訂版(1987年)を編纂したロジャー・パーカーの資料研究によれば、初演時のアンコールは、「行け、わが想いよ」ではなく、最後の賛歌「偉大なるエホバ」であったことが判明しているという。しかも、ミラノ以外のイタリアの都市で「ナブッコ」が上演されたとき、「行け、わが想いよ」が熱狂的に迎えられた記録もないという。

 ヴェルディは、確かに、統一後のイタリアで「名士」として国会議員にも選出されているが、彼が何らかの政治的活動をしたという記録は残っていない。国会にもほとんど出向かず、議員用の鉄道のフリーパスも使わなかった。それゆえ、著者は、ヴェルディには政治的意図はなかったと主張するのである。

「≪ナブッコ≫は、初演後数年の間に、ドイツ、フランス、南北アメリカ大陸を席巻した。このことからもわかるように、≪ナブッコ≫の成功はおそらく作品の力によるものであり、ナショナリズムとは無関係だった。もし≪ナブッコ≫や≪ロンバルディア人≫に政治的意図が認められるとしたら、それは父が政治犯として投獄され、本人にもその傾向があったテミストークレ・ソレーラの台本に帰せられるべきだろう。」(同書、65ページ)

 ただし、著者も、統一後のイタリアが「建国神話」にふさわしい「名士」を必要としていたということまでは否定しない。かくして、1880年代以降、ヴェルディの神話化が進んでいったのである。

 政治に関心がなかったのとは対照的に、ヴェルディは資産形成や農場経営には並々ならぬ情熱を注ぎ込んだ。最盛期には約670ヘクタールの土地(東京ドームのおよそ143個分)を所有していたというから半端ではない。ヴェルディの資産形成には、彼が当時のイタリアにまだ浸透していなかった著作権という考え方を確立し、作曲家の地位の向上に貢献したという面も大きく関係していただろう。だが、著者の紹介している最晩年のヴェルディポートレートは、「作曲家」というよりもほとんど「農場主」そのものである。「ある日の日課は、五時起床、ウズラ撃ちに出かけ(狩猟は彼の趣味のひとつだった)、朝食後は現場の見回り、その後一、二時間の昼寝、午後は家での仕事と手紙書き。夕食後は暗くなるまで散歩し、就寝前の時間はカード遊びに費やされた」と(同書、54ページ)。

 ヴェルディも、しばしば「ロンコレの農民」(ロンコレは北イタリアにある彼の故郷)と自称していたらしいが、それでも、よそ行きのときは、「トレードマークとなった黒いつばのある帽子をかぶり、公の場にはエレガントなスーツとシルクハットで現れた」という(同書、54ページ)。私たちがレコードやCDのジャッケトでよく見てきた姿である。「名士」として振る舞わねばならぬ時と場所はちゃんとわきまえていたと見える。

 ヴェルディは、「慈善家」としての顔ももっていた。彼は私財を投じてヴィッラノーヴァの病院と、音楽家のための老人ホーム(「音楽家のための憩いの家」)という二つの公共的な建物を建てたが、後者に比べて前者はあまり知られていないという(現在もリハビリ専門の病院として使われているそうだが)。

 「憩いの家」は、ヴェルディが「私の最高傑作」と呼んでいたものらしい。どういう意味だろうか。著者は、実際にその家を訪れたときに感じたことを次のように書いている。

「『憩いの家』を初めて訪れ、入居者=オスピテの演奏に接した時、筆者のなかで何かが腑に落ちたような気がした。それまで茫洋とした表情を漂わせていた老音楽家たちが、いったん演奏を始めると、若者のように生き生きした表情を浮かべるのだ。そのありさまを目撃したことは感動的だった。」(同書、60ページ)

 施設の名前を「芸術家のための養老院」と提案した建築家に対して、ヴェルディが入居者は「私のお客様」なのだから「音楽家のための憩いの場」がふさわしいとして譲らなかったゆえんである。

 作曲家以外のヴェルディの活動に予想外に字数を費やしてしまったが、作曲家としての功績は、著者が言うように、「ベルカント・オペラ」(歌唱美重視のオペラ)から「ヴェリズモ・オペラ」(リアルな人間劇のオペラ)へと大きな一歩を踏み出したというのが正論だろう。ただし、現実的な題材よりは、古典文学を題材に音楽と物語の両面から「真実」へと迫ったというのである(同書、69ページ参照)。

 ヴェルディシェイクスピアの作品を題材にとったオペラを何曲も書いていることは周知の事実であるが、興味深いのは、ヴェルディが「イタリア・オペラにおいて、シェイクスピアの原作を直接下敷きにした作曲家だった」という指摘である(同書、72ページ)。ヴェルディの時代、イタリアではシェイクスピアはようやく翻訳され始めた頃でまだメジャーではなかったという。だが、彼は「人間の心理の奥深さ」を描いたシェイクスピアに魅了された。

 ドラマ性の重視は、朗唱、二重唱、合唱の効果的な活用とも結びついているが、著者はヴェルディが複雑なキャラクターを表現するために低い声域(男声のバリトンや女声のメッゾ・ソプラノ)をしばしば活用したことに注目している。テノールでは「人間の心理の奥深さ」は表現できないのだろうかという疑問は残るが、バリトンという声域がヴェルディによって開拓されたという指摘は面白い。

 ところで、本書の後半には、ヴェルディ初心者を念頭に、「前期」「中期」「後期」の作品のあらすじがかなり詳しく紹介されているが、せっかく作品紹介をするのに、著者おすすめのCDや感動的だったライブなどを書き込まなかったのはなぜだろうか。そのような情報は他でも得られるといえばそれまでだが、ヴェルディのオペラの特徴をどの演奏が一番よく捕らえているのか、著者の意見を聞いてみたかったと思う(注3)。

1 例えば、イギリスのテレグラフ紙は、次のような記事を載せている。

http://www.telegraph.co.uk/culture/music/opera/9785708/Verdi-or-Wagner.html

2 ワーグナーについては、1980年代に高辻知義著『ワーグナー』(岩波新書、1986年)が出ている。

3 私がヴェルディの「オテッロ」(本書の読み方に従う)を初めて観たのは、1980年代のミラノ・スカラ座の来日公演のときだが、そのときの指揮者はカルロス・クライバーオテッロ役はドミンゴだった。本書の作品解説に次のような文章を発見したとき、そのときの感動が甦ってきたので、著者がどのような演奏を念頭に置いているのかが知りたかったのである。「シェイクスピア起爆剤となった≪オテッロ≫で、ヴェルディは音楽とドラマが徹底的に連動したオペラを創ることに成功した。その理由のひとつは、ヴェルディ・オペラではじめて『番号オペラ』を廃したことにある。それによって、イタリア・オペラにつきものだった、歌を聴かせるためにドラマが停止することから解放された。さらに、フランスのグランド・オペラに影響を受けたスペクタクルシーンなどの聴衆へのサービスもほとんど見られない。≪オテッロ≫では、ヴェルディ・オペラの醍醐味である、襟首を摑まれてドラマのなかに投げ込まれる快感が、初めから終わりまで驚異的な緊張感とともに続くのだ。ワーグナーをはじめとするドイツ・オペラの影響もあると思われるオーケストラの雄弁さも、特筆すべきだろう」と(同書、274ページ)。

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