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『談志が死んだ』立川談四楼(新潮社)

談志が死んだ

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「談志が死んで、談四楼はウロ死んだ」

1970年春、高校を卒業した「私」は34歳の噺家立川談志に弟子入りする。文壇とのつきあいも多い師匠のもとでの修業は、田辺茂一山口瞳吉行淳之介梶山季之近藤啓太郎生島治郎石原慎太郎色川武大など作家たちの普段の姿に触れることにもなる。こんなひとたちがいったいどんなものを書いているというのだろう。興味を持って読むにつれ、やがて自らも小説を書くようになる。真打ちとなり、作家としてのデビューも果たすと、多くの著書を持ちながら「(自分は)キレすぎている」から小説は書けないという師匠にこう告げられる。「小説はおまえに任せる。(略)書け、量産しろ。作家でございってな顔して、威張ってろ」。体ひとつでこのひとの元にダイブした「私」はこうして「落語もできる小説家」となる。


登場する噺家はみな実名で、「私」は著者の立川談四楼さんだ。小説だからすべてが事実ではないのだろうが、読んでいてどんな逸話も、ほんとうなのかフィクションなのかが大きな問題として意識にのぼることはない。談志さんが亡くなったのは2011年11月21日。その日、『死神』について原稿をまとめあぐねていた「私」が、翌朝仕上げて故郷・群馬へ仕事で向かったところから話は始まる。ニュースなどで聞いていたように、談志さんが亡くなったことはお弟子さんにもすぐには知らされなかったようだ。12月21日のお別れ会、正月2日の一門総会を経て、3日間4回興行の立川流追善落語会の計画が整うまで、のべつまくなしの通夜を重ねながら思い出された師匠とのこと。

     ※

圧巻は「私」が弟弟子の立川談春さんの著書『赤めだか』を褒めたあとに師匠からかかってきた怒りの電話。「クビだ、一門解散だ!」唐突過ぎてなにごとかわからない。怒る理由がわからない。説明がない。理不尽へのいらだちを募らせる「私」。理不尽つながりで、思い出されることがある。最初に入門志願したときのこと。〈館林の在の生まれと聞いて完全に田舎者扱い、ほう、群馬に大工がいるのかと、父親を侮辱しさえした〉。そして、落語協会の真打ち試験を一緒に受けて一緒に落ち、そのあと一緒に立川流の最初の真打ちになった兄弟子・小談志さんのこと。あれほど師匠を慕っていながら一門を出ざるを得なかったのには、よほどのことがあったのだろう。落語協会に移籍して喜久亭寿楽となり、経緯をなにひとつ語ることなく2008年に亡くなった兄弟子を繰り返し悼みながら、それぞれの理由に思い当たっては新たな衝撃を覚えていく。師匠と弟子の関係ではいずれも正面から向き合うことができなかったのだろう。



それが今、師匠ではないひとりの男がそこにいる。弟子ではないひとりの男がこちらにいる。師匠である談志と弟子である談四楼は互いにウロ死んでひとりずつのひとになり、小説という場所で禁断の対面を果たしているように思えるのだ。

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「私」自身の理不尽の告白もある。還暦の記念会で同期を招こうとしたときのこと。若き日に切磋琢磨した柳家権太楼さんとは、かつて一方的に不義理と思い込んで以来30年のあいだ交流を断っていたのだが、これを機に思い切って電話をかける。震える指。〈私は権太楼に対し、重い狭量病を患っていた〉。〈猛烈な羞恥に駆られ、私をためらわせるのだ〉。つながると、「喜んで」。当日権太楼さんが選んだ演目は『笠碁』。いつも碁をさしている二人がつまらぬことで喧嘩した、互いに意地をはっているが仲直りしたくてしかたがない。雨の日、笠で顔を隠して様子を見に一人が出ると、向こうも中からうかがっている。往ったり来たり……。



強情や理不尽を抱えて誰もが自分に苦しんでいる。だから、そう責めんなよ、相手も、自分も。読み終えて、そういう談志さんの声がした。

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