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『捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で』大津留厚(人文書院)

捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で

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「総力戦の狭間で「働く捕虜」」

 本書(大津留厚著『捕虜が働くとき―第一次世界大戦・総力戦の狭間で』人文書院、2013年)は、従来ほとんど取り上げられなかった第一次世界大戦中の「働く捕虜」たちの実態を詳細に紹介した好著である。第一次世界大戦を「総力戦」として捉える見方は大戦中からあったが、著者によれば、その言葉は、ドイツの軍人エーリッヒ・ルーデンドルフによる同名の著書(1935年)の刊行以来、次第に定着するようになったという。私たち日本人は、とかく第二次世界大戦に関心が向かいがちだが、ヨーロッパでは、多くの証言があるように、「青天の霹靂」のごとく勃発した第一次世界大戦の衝撃が大きかった。しかし、大戦の推移やその後のパリ講和会議などについてある程度知っていても、大戦中に捕虜になった人たちが「労働」に駆り出された事情についてはほとんど知らないといってもよいほどだ。本書は、その穴を埋める貴重な研究である。

 1907年のハーグ陸戦条約第4条には捕虜の人道的な処遇について、第6条には捕虜の労働に関しての規定がある。その内容は、かいつまんでいうと、将校を除いて兵士に労働をさせることはできるが、戦争に直接かかわる業務や過度な労働を課してはならないというものであった(同書、10ページ参照)。しかし、当初の予想に反して大戦が長引き、オーストリア=ハンガリーの場合、大戦中200万の自国兵士を捕虜として失うと同時にほぼ同数の200万の敵国兵士を捕虜として収容せざるを得なくなると、その規定は「原則」ではあっても実情はそれからかなり離れたものになっていく。敵対したロシアは、同じ捕虜でも、スラヴ系兵士を優遇し、ドイツ系やハンガリー系などを少し厳しく扱っていたが、しかし、これもあくまで「原則」に過ぎなかった。著者は次のように言っている。

「つまりオーストリア=ハンガリーは200万強の働き盛りの男性が捕虜となって労働市場から姿を消し、その代りに200万人弱の働き盛りの男性を捕虜として抱え込むことになった。失われた労働力の補完だけではなく、200万人近い捕虜を扶養するためにもいかに捕虜を労働力として利用するかはオーストリア=ハンガリーにとっては重要な課題となった。しかしそれはオーストリア=ハンガリーだけのことではなかった。」(同書、64-65ページ)

 当初想定してなかった事態に直面し、オーストリア=ハンガリー陸軍省は捕虜兵を雇用するに当たっての指針を改訂し(1915年8月10日)、雇用者と軍との負担の分担を明確にした。しかし、働く環境が劣悪なものであることに変わりはなく、1917年には捕虜兵労働部隊の監査が行われることになったという。

 捕虜兵労働部隊は、どんな労働を課せられていたのだろうか。著者は、オーストリア=ハンガリーの第11軍団の後方任務に就いた捕虜兵労働部隊を例に挙げているが、そこでは、例えば道路建設、ロープウェーの建設、パン焼きなどが挙げられている。ロープウェーの建設は「戦闘に関係する業務」の可能性が高いが(つまりハーグ陸戦条約違反)、オーストリア=ハンガリー軍は捕虜兵にそこまでの配慮をする余裕がなかったという(同書、84ページ参照)。捕虜兵を警備する人員も足りなかったので、監視の目をすり抜けて逃亡する捕虜兵も後を絶たなかった。さらに、捕虜兵と地域住民との「交際」という問題もあった。とくに、軍は、現地の女性と捕虜兵との「交際」によって感染症が増えることを警戒していたらしい。だが、著者は次のように述べている。「捕虜の労働力は交戦国に欠かせないものとなり、捕虜の集団は細分化されて雇用された。そのため捕虜が現地の人びとと親密な関係を築く可能性は高かった。感染症の蔓延などの負の側面には軍も神経を尖らせたが、警備に大きな勢力を割く余裕もなく、厳しい監査が行われたとは考えにくい」と(同書、94-95ページ)。

 大戦の長期化とともに食糧事情も悪化していったが、1917年後半には、不満を抱いた捕虜兵の逃亡が増加し、それに対応しなければならない警備兵も疲弊していった。監視を担当する立場にある監視委員も、自らの職務に耐え切れずに辞任を申し出るほどであったという(同書、101ページ参照)。

 ロシアの捕虜となったが幸い早期に帰国できたオーストリア=ハンガリー軍の兵士たちは、まだシベリアに残されている仲間たちの安否を案じていたが、まもなく捕虜としての自分たちの経験を風化させないために機関誌『プレニ』を発行し、そのスローガンに「苦悩があって初めて光がある、光があって初めて愛がある」という言葉を掲げた(同書、122ページ参照)。のちに捕虜に関する新たなジュネーヴ条約が締結されるが(ジュネーヴ条約は何度も改訂されているので、第一次世界大戦後であれば1929年の改定を指すと思われる)、なんとナチ政権のドイツががオーストリアを併合したあとの『プレニ』には、そのスローガンと並んでナチスハーケンクロイツが付されることになったという。旧捕虜兵の経験が第二次世界大戦中の捕虜の扱いに必ずしも活かされなかっただけに、表紙にハーケンクロイツを付した機関誌をみると複雑な思いを抱かざるを得ない(同書、123ページの表紙を参照のこと)。

 本書には、日本で捕虜になったドイツ人やオーストリア人などの興味深い記述もあるが、中心はオーストリア=ハンガリーに置かれている。著者によれば、この十年間で、第一次世界大戦の捕虜研究は急速に進んだという。来年(2014年)は、第一次世界大戦の勃発から100年という節目の年に当たるが、この機会に、第二次世界大戦の研究に比べて地味な印象のあったこの分野での研究が飛躍的に高まることを期待したい。

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