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『カザルスと国際政治 カタルーニャの大地から世界へ』細田晴子(吉田書店)

カザルスと国際政治 カタルーニャの大地から世界へ

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「音楽はビジネスではなく、聖職(カザルス)」

 パブロ・カザルス(1876-1973)は、20世紀最大のチェリストである。クラシック音楽のファンなら、そのことは誰でも知っている。しかし、本書(細田晴子著『カザルスと国際政治-カタルーニャの大地から世界へ』吉田書店、2013年)のテーマは音楽そのものではなく、「国際政治」とのかかわりである。音楽家と政治は全く別と考えたいひとも少なくないが、フルトヴェングラーナチスとの関係のように、意識的にせよ無意識的にせよ、両者がかかわらざるを得ない時代があったことも事実である。カザルスの場合は、スペインのカタルーニャに生まれたことがその運命を左右したと言ってもよいだろう。


 カザルスは、20世紀の初め、パリにて「文化国際主義」の香りを吸い込んだ音楽家であった。彼は、画家ドガ、政治家クレマンソー、作家ロラン、哲学者ベルクソンたちと交流し、コスモポリタンな視点を身につけた。他方、彼の音楽のバックグラウンドにはつねにカタルーニャの豊かな自然があったことがつとに指摘されてきたが、彼はのちにフランコ独裁下のスペインから逃れてプラードに亡命してからも「カタルーニャ性」を統合の象徴とするという意味での「政治的役割」をみずからに課した。

 著者は、スペイン内戦から第二次世界大戦を経て1950年代の冷戦期にかけて、カザルスは三つの観点から「政治的役割」を担ったとまとめている(同書、102-104ページ参照)。

 第一は、「反フランコ体制を掲げ、連帯意識を高める、政治的な象徴」としての役割である。実は、亡命カタルーニャ人の間にはいろいろな立場の違いがあったのだが、それを超越する象徴としてカザルスが担ぎ出されたのだ。

 第二は、「日々乖離していく政治家と民衆の間のつなぎ役」としての象徴である。カザルスは、世界中で演奏活動をおこなう自分自身をカタルーニャ語を操る中世の吟遊詩人にたとえていたらしいが、このような人物が民衆と知識人の間の乖離を埋めるための役割を期待されても不思議ではない。

 第三は、「カタルーニャ文化を維持して世界にアピールするための象徴」である。フランコ独裁下のスペインでは、カタルーニャ語を使うことは禁じられていたが、マスコミを通じたカタルーニャ語の広報にはどうしても象徴となる人物が必要だったのだ。

 著者は次のように言っている。

「歴史的にみると、カタルーニャ人はアイデンティティを守るために、カスティーリャに対抗してカタルーニャ語を守り続けた。彼らはスペイン内戦後、世界中へ離散してもカタルーニャ語、文化を大切に維持するのみならず、世界にアピールするのである。

 そして、このような背景には、文化国際主義者たちが活躍していた戦間期からの流れがある。知識人は大戦を止めることはできなかったが、マダリアーガが述べたように、戦後も知識人の中には真に芸術を理解しないユネスコの役人だけでは何もできないかもしれないという危惧感もあった。さらにラジオという音楽を広めやすいマスメディアの普及も忘れてはいけない。」(同書、103-104ページ)

 「大衆消費社会」の到来と重なる冷戦期では、ラジオに代わりテレビという媒体が登場し、反戦反核などの運動と文化国際主義者とのつながりも強化されたが、カザルスがプエルトリコという米国の自由連合州に移ってからは、本人の意思とは独立に、米国の政治的思惑にも巻き込まれていく。

 例えば、カザルスは、ケネディ大統領の「個人的な」招待を受けてホワイトハウスで演奏したつもりだったが、米国内のマスコミは、カザルスの反フランコ主義者としての活動に言及し、予想以上の反響を呼んだ。ところが、米国は国家としては「反共」のフランコ体制を承認していたのだ。カザルスのホワイトハウス訪問のすぐあと、ラスク国務長官が「ニューヨーク・タイムズ」紙(1961年12月17日付)において、「共産党の攻撃に対して世界を守る、米国の同盟者」としてのスペインを称賛したが(同書、145ページ参照)、カザルスが直ちにこれに抗議する書簡をケネディ大統領に送付するということがあった。

 政治の世界はそれほど甘くはない。ジョンソン政権のときも、副大統領のハンフリーがカザルスを個人的に尊敬していた関係で、知らぬ間にヴェトナム戦争擁護の方向に利用されかけた(もちろん、反核、反ヴェトナム戦争の象徴として彼を利用する勢力もあったが)。おそらく、そのような危険性は、本人もある程度は自覚していただろう。それでも、彼は「世界共通の言語」である音楽を通じて世界にメッセージを発し続けた。

「フランス側のカタルーニャにしっかり根を下ろしていったカザルスであったが、冷戦期の世界情勢とは無縁でいられなかった。またプエルトリコにわたったカザルスは、米国の自由連合州という特殊な地位を体感し、イスラエルの建国10周年を祝い、世界の民族自決について考えるに至る。こうして彼は次第にカタルーニャ民族自決のみならず、自らの音楽界・知識人の間における影響力を意識しつつ、連帯意識を持って平和運動を展開していくようになる。まさに世界に飛翔する時期が来たのである。」(同書、153ページ)

 「音楽家」カザルスに関心のある読者は、彼がカタルーニャの詩人アラベドラの詩をもとに作曲した「パセブラ」や、有名な「鳥の歌」にかかわる話を読みたいだろう。本書にも関係がある限り、そのような言及もあるが、しかし、メインテーマが「国際政治」である以上、禁欲せざるを得ない。

 カザルスは、あるとき、「芸術家は特に人権に関わる時は、中立的でいるわけにはいかない」と述べたという(同書、185ページ参照)。著者が言うように、彼が自らの活動の中軸に据えたのは、何度も触れるように、「カタルーニャ性」と「世界共通言語」であったが、この「武器」によって、彼は普通の政治家にはなしえないグローバルな影響力を及ぼすことができたと言ってもよいだろう。

「スペイン国内外のフランコ体制に反対する者たちの期待という重圧、亡命した後ろめたさという十字架を背負って、カザルスは世界を行脚する。なぜなら彼は「芸術家は政治に仕えるのではなく人間の尊厳に仕えるから、音楽家は道徳的責任がある」と考えていたためである。またカザルスによると、もちろん秀でた演奏技術も必要だが、音楽は心の中からあふれ出るものでなければならないという。さらに、「音楽はビジネスではなく、聖職」であるとも言っている。自分が何か得る前に、与えなければならないからである。」(同書、192ページ)

 カザルスというと、ふだんはバッハの無伴奏チェロ組曲の名演や「鳥の歌」くらいしか思い出さなかったが、本書を一読して、「国際政治」にかかわる彼の活動について多くを教えられた。このような影響力のある音楽家がほとんどいなくなった現在、カタルーニャ分離・独立運動がそう簡単に進まない理由もある程度察することができるのではなかろうか。

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