『カントの人間学』 中島義道 (講談社現代新書)
カントの『自然地理学』と対をなす『実用的見地における人間学』(以下『人間学』)の概説本かと思って読んだら、そうではなかった。
本書の元になった本は『モラリストとしてのカントⅠ』という表題で、『人間学』などを材料に
「あとがき」には「これまで「よい面」ばかり伝えられて来たのだから、一時的にこれくらいの引き下げ方をしなければ公平ではない」とあるが、実際本書はカントの「悪い面」ばかりをあげつらった観がある。池内紀の『カント先生の散歩』(以下『散歩』)のカントがケーニヒスベルクの上流人士の目に映った白カントだとするなら、本書は意地の悪い同業者から見た黒カントだろう。
カントには表面的なつきあいの友人は多かったが、真の友といえるのは貿易商のジョゼフ・グリーンくらいだったという点は『散歩』と同じだが、知りあった時期を『散歩』より10年遅い50歳の時としている。
グリーンとの関係は次のように描かれている。
カントは彼から徹底的にかの有名な「時間厳守」を学び、自分の資産を彼の会社に高利で預けて殖やし続けていた。グリーンは「その無能力が詩にまで及び、詩と散文の差異を、前者は無理やりな誇張された音節の配列であるという点においてしか認識できない」程度の男であった。そして、この男にカントは全幅の信頼を寄せ、「『純粋理性批判』には、あらかじめグリーンに示し、その公平でいかなる体系にもとらわれない理解力による批評を受けずに書いた文章は一つとしてない」と明言していたのである。
「高利で預けて殖やし続けていた」とか、グリーンが「その程度の男」という書き方には悪意を感じる。文学がわかるかどうかは人間の価値とは無関係だし、カントがちまちま貯めた金をグリーンが有利な条件で運用してやったのはあくまで友情からだろう。本書の記述にはいちいち毒がある。
もっとも『散歩』が公平というわけではないだろう。本書とあわせて読むと、逆の方向に偏った記述だったことがよくわかる。
たとえばカントが外食に使った店について『散歩』はユンカース通りのツォルニヒやビリヤード台が売物のゲルラッハの名前をあげ、御者や兵士、職人の集まる大衆的な店だったとしているが、本書ではホテルだったとしている。大衆的な店だとカントは気さくな人という印象になり、ホテルだと成り上がり者という印象になるだろう。両方に行っているのかもしれないし、時期によって使う店が変わったのかもしれないが、片方だけだと偏った印象をもつ結果になる。
『散歩』にはカントが王家に次ぐカイザーリング伯爵家のサロンの30年にわたる常連だったとあるが、本書によるとカイザーリング伯爵家との縁は家庭教師として住みこんだことにはじまる。
その時カントは28歳だったが伯爵夫人のシャルロッテは24歳で、二人の子供よりも夫人の方が勉強に熱心だった。夫人は晩年にプロシア芸術院会員に推挙されたほどだったから学ぶ意欲の旺盛な人だったのだろう。本書には夫人がカントに秋波を送り、からかわれたと思ったカントは女嫌いになったのではないかという推測が書かれているが、本当のところはわからない。
『散歩』はカントの少年期や勉学時代については「学制のちがいや、教務体制がややこしいし、今とはまるでちがっている」として省略している。カントの伝記をはじめて読む人はカントは普通の学生生活を送ったので、わざわざ語るほどのことはなかったと受けとるかもしれない。ところがまったく違うのだ。
カントは貧しい馬具職人の家に生まれたが、抜群に頭がよかったので無料で学べる教会の付属学校にいくことができた。教会の付属学校で学んだ子供は牧師になることが期待されたが(カントの弟は牧師になった)、カントは哲学を志し、分不相応にも大学に進んだ。
貧乏だった上に父親が病気をしていたから家の援助はまったく期待できなかった。カントは裕福な同級生の家庭教師をしたり、トランプやビリヤードで臨時収入を得たりしてどうにか卒業した(学費が足りずに卒業できなかったという説もある)。
『人間学』に「流行に従っている阿呆である方が、流行を外れている阿呆であるよりは、とにかくましである」とあるようにカントは服装に気を配ったが、苦学時代は着古した一張羅しかなく、仕立屋に直してもらうまで外出できないこともあった。見かねた友人が新調の代金をこっそり出そうとしたが、カントは断固断った。「負債や他人を頼ることの重荷」を嫌ったからである。
カントは生家の思い出をほとんど語っていないが、次のような挿話を読むと両親は借金に苦しんでいたのではないかと思えてくる。
この偉人はよくこう言ったものです。「誰か扉をたたく者があると、私はいつも落ちついた楽しい心で、おはいりなさい、と言うことができました。それは、扉の外には絶対に債権者がいないということが確かだったからです」。
カントは住込みの家庭教師をしながら就職資格論文を完成させて母校の私講師となったが、私講師は固定給なしの不安定な身分だった。カントはなかなか教授になれず私講師をつづけた。
そういう苦労人だったからだろう、教授になって生活が安定すると貧民救済基金に毎年多額の寄付をおこない、貧しい学生には受講料の一部ないし全部を免除した。カントが他人のために費やした金額は年俸の1/4から1/3におよんだという。
その一方、何日に払うといって約束の日を守らなかった学生には厳しくあたった。また次のような一面も伝わっている。
あるとき私たちが散歩の途中で、たちの悪い若い乞食にしつこくせがまれ、まるでお互いに話もできなかったので、私は数ペニヒの金を与えて乞食を追い払おうとしたのだが、カントはその金を私の手からとり上げ、金の代りに杖で乞食に一打ち食わそうとした。
乞食に杖を振りあげる姿はわれらが哲学者に似つかわしくないが、若いのだから物乞いせずに働けということか。自分に厳しい人は他人にも厳しいのだ。
本書だけを読んでカントを判断するのはまずいが、二冊目の本として読むといいと思う。