『リッカルド・ムーティ自伝』リッカルド・ムーティ(音楽之友社)
「”音楽に境界はない”」
イタリアのナポリ出身の指揮者リッカルド・ムーティ(1941年生まれ)を生で聴いたのは、フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督として来日した1980年代の初め頃だったと思う。若々しい姿と指揮ぶりが今でも印象に残っているが、いまや70歳を超えて「巨匠」と呼ばれるようになった。彼は現在シカゴ交響楽団の音楽監督として活躍しているが、本書(『リッカルド・ムーティ自伝』田口道子訳、音楽之友社、2013年)は、シカゴでの仕事が始まる前に出版された原書(2010年)の翻訳である。
この世代の多くの指揮者と同じように、ムーティもカンテッリ・コンクールに優勝してから指揮者としての活躍の場を広げていくことになるが、初めはピアノの勉強をしており、指揮者になったのは偶然の要素も大きく働いている。
指揮者としてはまだ駆け出しの頃、すでに大ピアニストであったスヴャトスラフ・リヒテルと共演することになったが、なんとムーティは正直にもリヒテルに本当に自分が指揮してもよいものだろうかと尋ねた。リヒテルは一緒にピアノを弾いてみようと指示し、モーツアルトとブリテンのピアノ協奏曲のオーケストラ部分をピアノ伴奏用に編曲したものを弾くことになった。弾き終わったとき、リヒテルはこう言ったという。「もしあなたがピアノを弾いたように指揮するなら素晴らしい音楽家です。あなたとコンサートをすることにしましょう」と(同書、51-52ページ)。
その後は、フィレンツェ五月音楽祭歌劇場の音楽監督、フィルハーモニア管弦楽団の首席指揮者、フィラデルフィア管弦楽団の音楽監督、ミラノ・スカラ座の音楽監督など主要なポストを歴任したが、その他にもカラヤンの招きでザルツブルク音楽祭でモーツアルトのオペラを指揮したり、ウィーン・フィルやベルリン・フィルの指揮台に上ったりと多忙な音楽活動を展開するようになった。とくに、ウィーン・フィルとの相性がよかったようだ。彼は次のように言っている。
「ウィーン・フィルとの共演は、私の人生のうちで最も大切なものである。1971年に付き合いが始まって以来、この自伝を書いている今日もその親密な関係は続いている。
毎年ザルツブルク音楽祭への参加は決して欠かさない。オペラの指揮をしなかった年も、ウィーン・フィルとの演奏会だけは行った。」(同書、96ページ)
ウィーン・フィルから「金の指輪」(1992年のオーケストラ創設150周年記念)を授与されたのも肯ける(2001年にはニコライ賞も受賞している)。
だが、ヴェルディを初めとするイタリア・オペラに触れずしてムーティを語ることは許されないだろう。幼い頃からオペラに親しむ環境で育った彼は、ミラノ・スカラ座音楽監督というイタリア・オペラでは頂点の地位に就いて数々の名演を遺したが、ある事件が起きてからは両者の間に「溝」ができてしまったことは否めない。その事件とは、スカラ座の組合員が雇用問題をめぐってストライキ(1995年6月2日)を起こしたため公演が不可能になったところを、熟慮の末、ムーティがオーケストラの代わりにピアノ伴奏で「ラ・トラヴィアータ」を上演するという苦肉の策で乗り切ったことを指している。ムーティは、この事件について多くは語っていないが、次の文章だけでも彼の胸中を察するには十分ではないだろうか。
「記者会見では、私を勝利者として英雄扱いしたがる人がいるとすれば、昨夜は誰も勝利したわけではなく、それは我々が、劇場やオーケストラや私自身やヴェルディや観客を失った悲しい日だったと考えるべきである(とにかくオペラを縮小して上演してしまったのだから)と言ったことを覚えている。そして私が極限状態でとった態度は決してオーケストラに対抗するものではなく、午後八時に集まってオペラを観ようと楽しみにしている観客の気持を損なわないようにするためだったと説明した。私は――スカラ座のオーケストラとはその後も素晴らしい関係は続き、多くの仕事をしたが――あの日を境にオーケストラとの信頼関係に何かしら亀裂が入ったと思っている。」(同書、145ページ)
さて、今年はヴェルディ生誕200年という記念の年だったので、ムーティも引っ張りだこだったが、興味深いことに、彼は指揮者としての仕事は「孤独」だと語っている。「楽譜を前にして、演奏への探求をすることのみならず、それをオーケストラに伝え、さらに観客にまで届けなければならない使命を負っているのだ。コンサート前後に一人きりで楽屋にいる時、頭にあるのは演奏の完璧さを追求することだけで、他には何も考えていない」と(同書、159ページ)。
ムーティは、現在、将来を担う音楽家の育成にも力を入れている(学生やオペラ・ファンへの「レクチャー」や公開リハーサルなど)。その他、「様々な事情から自分の意志に反して文化から遠ざかっている人々」、端的にいえば刑務所で刑に服している人々のための演奏会というのもある(同書、190-192ページ参照)。「音楽は人々を慰める役も果たす」(同書、191ページ)という信念からの活動である。最終章が「音楽に境界はない」と題されているのは、その意味で、本書の結びにふさわしいのではなかろうか。