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『中国抗日映画・ドラマの世界』劉文兵(祥伝社新書)

中国抗日映画・ドラマの世界

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 「中国では、なぜ抗日をテーマにした映画・ドラマが製作されつづけるのか?」「中国人が抱く日本へのネガティヴなイメージを作り上げた根本的な原因が、両国のあいだの政治的摩擦よりも、そもそも日中の歴史問題にあったのはいうまでもない。戦後生まれの中国人が日本に対して抱いているイメージは、戦争経験者の証言や、学校での歴史教育にくわえ、そのかなりの部分が映像によって形成されている」。「二〇一二年の一年間、中国全土をカバーする衛星テレビ放送のゴールデンタイムに放映されたドラマおよそ二〇〇作品のうち、七〇作品以上が抗日ドラマであった。しかし、そのほとんどの作品は、超人的英雄としての中国共産党軍と、残忍だが愚かな日本兵の対決という、一定の図式のもとで、過酷(かこく)な歴史をエンターテインメント化しているという傾向が目につく」。


 本書は、抗日映画・ドラマの歴史的変遷を整理したもので、著者劉文兵は、つぎのように「あとがき」でまとめている。「抗日映画(ドラマ)は、過酷な戦争やそれに対する中国国民の生々しい記憶を映しだすドキュメントであり、またつねに中国国内政治や日中関係、国際関係の変化に左右され、多大な抑圧にさらされるプロパガンダでもあり、さらに勧善懲悪的な痛快さと軽やかな娯楽性に彩られたエンターテインメントでもありました」。


 政府が見せたいもの、一般の中国人が見たいものは、つぎのように説明している。「中国政府が見せたい抗日戦争の歴史とは、どのようなものか。それは、中国共産党の指導によって苦難の末に勝利を得て、ようやく安寧(あんねい)の日々を取り戻したという努力の歴史にほかならない。そのため、日本軍の残虐さと侵略の不当性を訴えつつ、その犠牲の上に今日の平和と繁栄が築(きず)かれているという両面が描きだされなければならない」。「いっぽう、一般の観客や視聴者からすれば、重苦しいドラマよりは、カンフーの達人がさっそうと日本兵を倒す痛快な活劇のほうが楽しい。抗日ドラマを日常のうさ晴らしとして観たい。そのため、ドラマのストーリーや表現はしだいと過剰になり、公式の歴史像から逸脱(いつだつ)する結果となっていた」。


 しかし、視聴者は、これらの「抗日」ものを、けっして「史実に基づくドキュメンタリー的なドラマ」としてとらえているわけではない。「史実に基づくフィクションであることを、観る側もつくる側も認識したうえで、ファンタジーの世界を消費しているわけである。しかし、フィクションだということが分かっているにせよ、視聴者が知らずしらずのうちに、そうした短絡(たんらく)的な思考法に染まっていくという潜在的な影響が考えられる」。


 そして、冒頭の問いにたいして、著者はつぎのように答えている。「日本兵を悪役とした抗日ものだけは、いつの時代になっても絶えることがなかった。中国にとって、抗日ものが孕む対外的なメッセージ性を配慮する必要はないかのようだ。少なくとも日本に対してはそうである。なぜなら、日本はかつて明白な加害者だったからだ。そういう意味で、旧日本軍は、敵としてあつかいつづけても問題の少ない安全牌(ぱい)である」。


 しかし、このようなことはけっして好ましいことではないことを、著者はよくわかっており、さらに日本にたいしても、つぎのように述べている。「他者のまなざしを取り入れることのないまま、単純な物語がひたすら内向きに広がっていくという傾向は、けっして健全ではない。それは、中国の抗日ドラマだけではなく、日本の歴史表象についてもいえるだろう」。「たとえば、第二次世界大戦をあつかう、近年の日本の戦争映画やテレビドラマでは、侵略の過程における日本人の加害者・収奪者としての側面が、まったくといってよいほど無視されている。つまり、加害の史実そのものが表象の舞台から排除されているのだ」。「批判的な自己認識の前提としての他者のまなざしを考慮することなく、自己愛的な物語をひたすら内向きに消費しつづけるという点において、日本の歴史表象は、中国の抗日ドラマと同じ位相(いそう)にあるといえる。否、加害の史実まで隠蔽(いんぺい)し、否認する歴史修正主義の傾向がさらに批判されるべきであろう」。


 最後に、著者は「あとがき」で、つぎのように今後のあり方を述べている。「閉鎖的な状況のなかで、私たちは政治やメディアに左右されることなく、相手国に対する冷静な判断力を涵養(かんよう)しなくてはなりません。そして、メディアがつくり出したイメージとは異なる相手国の実像に触れ、新しい交流の回路を模索し、それを地道に積み上げていくしか道はないのではないかと思います」。


 著者のような中国人がいるかぎり、「反日」はまったくなくなるとまではいえないが、いずれおさまっていくことだろう。隣国同士は、日中にかかわらず、愛憎半ばで、良い関係のときはそれができるだけ長くつづくように努力し、悪いとき冷静に静まるときを待つしかない。その基本は、互いに良いところを認め、尊重しあうことだ。本書を通じても、「抗日」のなかに日本/日本人の優れた部分を認めている場面があった。けっして、一方的な目で見ない限り、好転の機会は訪れる。そう信じたい。


 著者は、「近年の日本の戦争映画やテレビドラマでは、侵略の過程における日本人の加害者・収奪者としての側面が、まったくといってよいほど無視されている」と述べているが、『ビルマの竪琴』(竹山道雄、1947-48年に雑誌連載、56年85年に映画化)にみられるように、敗戦直後からその傾向はあった。その意味で、日本側の戦後責任は重い。また、著者が心配している「加害の史実まで隠蔽(いんぺい)し、否認する歴史修正主義の傾向」が、特定秘密保護法で強まるなら、日本への信頼はさらに低下し、抗日ドラマは今日の問題としてつづくことになる。


 いっぽう、中国人留学生に訊くと、若者には抗日ドラマは人気がないという。しかし、夫婦共働きで、子育てを祖父母に任せている家庭では、祖父母とともに幼子が抗日ドラマを観ている。「西から昇ったお日様が東へ沈む」ではじまる人気漫画の主題歌を、日常生活で東西南北を意識しない都会の子どもたちが、ずっと信じていたという話がある。「刷り込み」の影響が、将来出るのかでないのか。「ギャグ」として、笑い飛ばせる余裕があるといいのだが・・・。


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