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『田中希代子』萩谷由喜子(ショパン)

田中希代子

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「ピアニストの星」


現在の若いピアニストは幸運である。アジア全体の音楽レヴェルが欧米で認められ、どこの音楽院、音楽大学でも東洋からの生徒は歓迎される。アジアからの生徒を持つことは、その国での知名度に繋がる。良い教えをすればその国からの生徒が増えてくる。上手く行けば、いずれはアジアの大学から招待され、マスタークラスを開く光栄が待っている。特に、経済的に恵れない国の教師たちは海外での講義を切望する。アジアから欧米に留学する生徒は未だに多い。わが大学でも、日本、韓国、台湾、中国、インドネシアからの生徒が多い。大学のレヴェルとアジアからの生徒数とは密接な関係にあるのである。

最近ではアジア人の国際コンクール入賞が多い。そもそもアジアから優秀な若手が流出されているわけであるから、確率が高いのは当然であろう。日本人の演奏が欧米で認められるようになった前には、日本製の車、電化製品、食文化が欧米人の日常生活に定着した時期があった。それは大まかに考えて1970年後半であろう。70年代前半は、まだ我々の音楽を認めることに躊躇があったように感じる。国際コンクールで最終予選に残っても、実力はあるのに1位になる幸運を与えられた日本人は稀であった。

1952年、ジュネーヴ・コンクールで1位なしの2位を受賞し、翌年の2月にパリでデビューリサイタルを開いた田中希代子は、まさに日本のピアノ界に新風を巻き起こしたピアニストだった。36歳で膠原病にかかり演奏活動から遠ざかるが、多くの生徒たちを教え1996年に亡くなった。現在、彼女の演奏が聞けるのは、「田中希代子のレコードを作る会」の努力のおかげである。

彼女のCDを聞いた第一印象は、素晴らしく透き通ったピアノの音色である。ピアニストにとって音は自分の声である。美しい音は教えられて作られるものではない。それは、本人の音色に対する感性と想像力、さらに無理の無い演奏法なども加わり、それらが程よいバランスで行われる。さらに自分の音を聴く能力も欠かすことが出来ない。私は多数のコンクールを審査しているが、初めて聞く100人ものピアニストのどこに惹かれるのかと問われれば、その人の持つ美しい音色だと答える。汚い音で素晴らしい演奏をしても、私の耳には入るが心までは届かないのである。

田中希代子の家は、妻の実家から歩いて2分もかからない所にあった。私の妻もピアニストでインディアナ大学で教えており、家が近いこともあって二人で彼女を訪ねる機会があった。田中希代子は優しい声を持ち、気品が高くウィットにインテリジェンスが見える、私にとってこの出会いを忘れることは出来ない。

この本の魅力は、ここで田中希代子に再び会える喜びもあるが、彼女がデビューする前の日本人ピアニストたちにも遭遇できることである。読んでいるとあたかもそこにいるかのような気持ちにさせてくれる著者の筆力と、物語の軽快な運びも魅力である。

この本には、日本の音楽教育に多大な貢献をした井口基成、安川加寿子他だけではなく、井口基成の師であった高折宮次、ベートーヴェンピアノソナタで最も難曲と言われている「ハンマークラヴィーア」を大正時代に演奏した久野久などが登場する。手軽にCDなどが聞けなかった時代、この人たちはどのようにベートーヴェンを解釈したのであろう。このような古い資料を集めることはさぞかし大変だったであろうと思う。著者の努力に頭が下がる。


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