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劇評家の仕事

[劇評家の作業日誌](1)

これから当分のあいだ、このコラムを担当することになった。まずは自己紹介から始めてみよう。

わたしは70年代後半から演劇の批評を書きはじめた。当時は60年代から開始された演劇革命がその最盛期を超えて、すでにアングラ<以後>といったことがささやかれはじめた頃である。以来、25年ほど舞台を見、演劇についての文章を書いてきた。そして人生の多くの時間(主として夜)を客席で過ごしてきたのである。

普通に生きている人にとって「娯楽」である観劇を「仕事」にし、劇場に通う日々が常態化した生活など想像できるだろうか。ちなみに昨年のわたしの観劇本数は182本、ちょうど二日に1本というペースに相当する。昨今、舞台の公演数が増え、平日でもマチネー(昼興行)が行なわれ、一年で300本以上見る東京在住の劇評家はざらになった。その結果、劇場通いのスケジュールに追いまくられ、ほとんど「過労(=徒労)死」寸前の劇評家も稀ではない。現代人は「忙しすぎる」とはよく言われることだが、過剰生産/過剰消費にどっぷり浸かり、先が見えぬまま目の前のスケジュールをこなすのみで、何ら創造的になれない。演劇批評の仕事も確実に資本主義の波が押し寄せてきている。

わたしは一方で大学でも教えている。しかも大阪の近畿大学に毎週、新幹線や飛行機で通っているから、移動にかかる時間も馬鹿にならない。だがこれを逆に考えれば、東京‐大阪の移動にともなって、劇場に行けない日、つまり「観劇死に日」が年に百日ほどあって、これが案外わたしの心の健康を保ってくれているのではないか、そう思うのである。

大学でわたしは、演劇の理論や演劇史などを担当しているが、この近畿大の演劇専攻は全国でも数少ない実習のある大学なので、学生は座学とともに実習で演技や舞踊の指導を受ける。その授業発表に案外掘出し物も多い。実際、わたしの喋ったことが、学生たちの実践の道具になる場合もあり、理論と実践という絵に描いた図式が遂行されることもある。講師陣も演出家の松本修氏や劇作家の竹内銃一郎氏など実践の現場で活躍している教授陣が揃い、今年から客員教授唐十郎氏を迎えることになった。この二月から三月にかけて、唐作品を四本上演する「唐十郎フェスティバル」が学内で行なわれた。構内に二つのテントが立ち、いつも見慣れた風景を異化する演劇ならではの荒業は、やはり演劇の他のジャンルにないパワーを感じさせた。ここで上演された松本修演出の『唐版・風の又三郎』や唐さんがこの3月まで教えられていた横浜国大のメンバー、唐ゼミの『少女都市からの呼び声』(中野敦之演出)は出色のものだった。このフェスティバルは学生が自主的な発意で開始したもので、教師陣はあくまでサポートに回る。今時の大学としてはかなり活発な活動を展開している方だろう。

わたしの最近の仕事のうちかなりのウエートを占めているのは、「シアターアーツ」という演劇批評誌の編集・発行である。年に四回、つまりクォータリーで刊行される雑誌は、演劇評論家協会(AICT)が刊行するものだが、その編集代表を昨年から務めている。この雑誌は非営利で、定期購読者を基礎に運営しているので、経済的な側面もわたしが責任を負っている。何とか一年、四冊発行できたが、つねに綱渡り状態での悪戦苦闘であることに変わりはない。だが若い書き手が徐々に育ってきており、なかなか楽しみな成果につながっている。演劇批評家は単に劇場に通い、舞台を見、文章だけ書いていればいいのではない。演劇の講座に関わり、シンポジウムや各種の会議など実に多種多様な仕事に忙殺される。時には演劇フェスティバルにも関わることもある。

以上がわたしの基本的な生活スタイルである。こうした日常のなかから劇評家が何を考え、何を見、行動し、何を読んだかを、作業日誌風に記していくことにしたい。内容は「劇場」「大学」「雑誌」といったことが軸になっていくだろう。さらにこの大項目はいくつかの小項目に分類され、それぞれのキーワードが生まれてくるだろう。劇評家といっても読者にはあまりはっきりした像はないだろうし、一般に「批評家」あるいは「評論家」の生態などめったに知られることもないので、それを開陳していくのも悪くないかなと思っている。