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『親愛なるキティーたちへ』小林エリカ(リトルモア)

親愛なるキティーたちへ

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「これから生まれ来るキティーたちに向けて」


 この本は旅をする。2009年の東京から、1945年を経て、1929年のフランクフルトと弘前へと。その旅の途中で訪れる場所と時間は、さまざまに交錯しながら、現在のわたしたちへと繋がっている。

 アーティストである小林エリカの最新刊『親愛なるキティーたちへ』(リトルモア)は、幼い頃から『アンネの日記』を愛読していた作者が、2009年に父・小林司の80才の誕生日に訪れた実家の書庫で、65年前に父がつけていた日記を発見するところから始まる。そこには作者自身も知らない父親の姿、若き日の小林司がいた。

 精神科医でもあり作家・翻訳家でもあった小林司と、アンネ・フランク。父親とアンネがともに1929年の生まれであったことに気づいた小林エリカは、異なる場所で同じ時間を生き、自らの記録を付け続けていたふたりを重ね合わせた。そしてこのふたりの日記に、もうひとつの日記を付け加えることを考える。

アンネはユダヤ人の少女だった。私の父は日本人の少年だった。

 かつて、ユダヤ人たちを虐殺したナチス・ドイツと日本は同盟関係にあった。歴史的な事実を考えると、戦争の中で、彼女は死に追いやられ、彼は間接的に彼女を死に追いやったということになる。

 それと同時に、彼女は私が心から尊敬し夢中になったアンネ・フランクであり、彼は愛する私の父小林司だった。(25頁)

 彼女は父の日記とともに、アンネ・フランクの人生をたどる旅に出た————その旅の間に彼女自身が記すことになる白い日記帳を携えて。本書『親愛なるキティーたちへ』は、アンネ・フランクの死と生をたどる記録であり、戦中・戦後に青春時代を過ごした父の姿を探す作業でもあり、そして小林エリカ自身がみずからの生の意味を確認する手記である。と同時に本書は、いかに個人が————読者を含むひとりひとりが————過去と現在を結び、未来への礎としての役割を担っているかを力強く物語る。「異なる時間、異なる場所で、私たちの人生の中の、ある一日は過ぎていく」(112頁)。

 

 小林の旅は、2009年3月30日に始まり、4月15日に終わる。この間に彼女はアンネ・フランクの人生を、死から生へとたどっている。すなわち、アンネの終焉の地であるベルゲン・ベルゼン強制収容所から、アウシュヴィッツ強制収容所、ベステルボルグ強制収容所アムステルダムの《隠れ家》、フランクフルトのガングホーファー・シュトラーセ24番地、そしてアンネの生まれた場所マールバッハ通り307番地へと。小林がたどった道は逃れようのない死の瞬間から、無限の可能性を秘めた時間へと遡る旅だった。

 ベルゲン・ベルゼン強制収容所を訪れたあと、近くにあるツェレの町に戻ったときのことを、小林はこう記している。

 

まだ旅は始まったばかりだというのに、はやくも憂鬱。

 コーヒーを甘くして飲む。歯ぎしりしながらパンを囓る。ひたすら飲んで食べる。

 石畳の広場の明るい日差しの中を大勢の人たちが行き過ぎてゆく。

 一体全体、その時代に生きていた人たちは、こんなにも無残に人が殺されてゆくのを、いったい、どうして平気で見過ごすことなんてできたのだろう。けれどどうして、そんな事態を誰一人止めることができなかったのだろう。そこに生きていた人々は野蛮人ではない。学校へ行って、本だって呼んでいた。

 わたしは憤りながら、クリームスープをスプーンですくう。

 学校へ行って、本を読むと、野蛮なんてめではないほど野蛮に、そして残忍で無関心になるのか?

 しかし、今を生きる私は、それと全く同じ問いを後に投げかけられることになるのだろうか?

 この時代に生きていた人たちは、こんなにも無残に人が殺されてゆくのを、いったい、どうして平気で見過ごすことなんてできたのだろう。

 けれどどうして、いま私たちはたったいま起きている事態を、誰一人止めることができないのだろう。(50-51頁)

小林はこの記述の直後に、1944年7月15日に書かれたアンネ・フランクの日記を紹介している。そこにはこう記されている。

じっさい自分でも不思議なのは、わたしがいまだに理想のすべてを捨て去ってはいないという事実です。だって、どれもあまりに現実ばなれしていて、とうてい実現しそうもないと思われるからです。にもかかわらず、わたしはそれを捨てきれずにいます。なぜならいまでも信じているからです————たとえいやなことばかりでも、人間の本性はやっぱり善なのだということを。(53頁)

そして、1945年8月15日の小林司の日記が続く。

朝九時頃から仕事があった。十二時十五分前重要なる放送があるといふので全員朝礼の位置に集合。時報の後放送有り。・・・想像通り露国の戦線の大詔が下つたのだらうと思って頑張るぞ!と手を握りしめた。處が「戦局我に利あらず」とか「勝算既に難し」とか云ふ言語が聞こえた。・・・音が聞こえないと同時に気が遠くなる様な気がして思はずフラフラと二三歩よろめいた。血液が頭から無くなって行くような気がする。茫然自失とはこの様な事を云ふのだらう。(54頁)

 三人の声が同時に響くとき、本作は単なるアンネをたどる単なる旅行記というだけでも、父親を理解しようとする娘の個人史というだけでもなく、小林の戦争に対する確固たる姿勢を表明した作品であることに、読者は気づくだろう。先に引用した小林の問いかけは、2001年の同時多発テロの直後に起こったアフガニスタン空爆をきっかけに始められた彼女の反戦プロジェクト「空爆の日に会いましょう」を想起させる。空爆が行われた日は自宅に戻らず東京で「難民」として友人・知人宅に避難するという生活を133日間にわたって行った小林は、その生活の様子を『空爆の日に会いましょう』(マガジンハウス 2002年)にまとめている。彼女のその行動の原点に、アンネ・フランク小林司がいたのだと、本書を読んで思い至った。

 死から生へ、終戦から開戦へ、時間を逆にたどる小林の旅は、より多くあった可能性へと時間を戻す旅でもある。それは、戦争を止められたかも知れない、あるいは生き延びることができたかもしれない時間へと遡ることでもある。もちろん、すでに過去は決定されてしまっており、それを変えることはできない。しかし本書を読みながら小林の旅に同行している気分になる読者は(というかわたしは)、小林に案内されながら、悲劇が起こる前へとタイムスリップしているかのような錯覚に陥るのである。ベルゲン・ベルゼンアウシュヴィッツ、ベステルボルグを順に訪れたあと、「強制収容所はもうおしまい。足取りはほんの少しだけ軽くなる」という小林の言葉が印象的である。

 小林はアンネの死ではなくむしろその誕生に、アンネが生まれてきたことそれ自体に、意味を見出している。それはすなわち、父の人生に意味を見つけることでもあり、そして15才で亡くなったアンネの年を越えて生きる自分の生に意味を見つけることでもあると思う。あるいはすでに生まれた、そしてこれから生まれてくるはずの全ての命の意味を。

 本書刊行に先立ち、今年の4月14日から26日まで渋谷のロゴスギャラリーで「親愛なるキティーたちへ」展が開催された。そこでは、小林エリカが旅行中に描いたスケッチがアンネの日記小林司の日記のテクストとともに展示されており、異なる時間と空間が接続される場所となっていた。そのスケッチ作品が本書にも収録されており、写真よりもはっきりと小林が何を見て何を感じたのかが、伝わってくるものだった。「親愛なるキティーたちへ」————複数形のキティーとは、小林にとってのアンネ・フランクであり、小林司である。またこの呼びかけは、これから彼女のキティーになるであろう人々への呼びかけであり、これから生まれ来るキティーたちに向けられていたのだと、わたしには思われるのである。


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