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プロの読み手による書評ブログ

『和ごよみで楽しむ四季暮らし』岩崎眞美子(学研パブリッシング)

和ごよみで楽しむ四季暮らし

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「夜空を見上げて、暦を感じる」


 書評空間という場を与えていただいているにもかかわらず、長く休んでしまったり、かと思うと思いついたように書評をアップするいいかげんなわたしとは対照的に、ストイックなまでにコンスタントに書評を発表しつづける阿部公彦先生にエールを頂いてしまった(エール…ですよね?)。ありがたいことである。

 この「快調」さが崩れないうちに、以前から紹介したかった本を取りあげたい。だが、まずはわたしの思い出話から始めたいと思う(「ドロドロの××劇」ではありません…)。

 夏に母の郷里である滋賀県彦根市の祖父母宅に行くと、祖父は庭の水まき、祖母は土間の入口にござを敷いて、裏の畑で取れた大きなかんぴょうをむいていたのをよく覚えている。広い土間には竈がいくつかあり、横にある木戸をあけると薪をくべて湧かす五右衛門風呂があった。水道は井戸水をくみ上げていて、足元の暗いところにはお酒とお札がそなえられていた。「そこにはかみさん(神様)がいるから近づいたらあかん」と祖母によく言われていた。

 お盆が近づくと、祖父は毎晩夕食後に仏壇の前でお経を上げる。その声が聞こえると祖父母宅に集まったおじ、おば、従兄弟たちが仏間に集まって、一緒にお経を唱え始める。母と伯母の調子っぱずれな読経につられて、祖父の音程もゆれ始め、最後には「ちゃんとやらんか!」と祖父が大声を出して、みんなが笑う。ご縁さん(お寺の住職さん)がお見えになる日は、大人たちはみんな少し忙しそうにお迎えする準備をしていたのを覚えている。

 なんとなく子供の頃のこうした夏の暮らしを思い出したのは、岩崎眞美子さんの『和ごよみで楽しむ四季暮らし』を読みながらのことだった。本書はわたしたちがふだん見聞きしているけれども、その由来や意味をあまり理解していない「節目」や「行事」を、旧暦を使ってていねいにわかりやすく説明してくれている。

 著者の岩崎さんは、神社や各地の祭り、神話・民俗学に造詣の深い方である。雑誌『幽』において「日本の古き神々を尋ねて」という各地の神社を取材した連載を担当されていたことは記憶に新しい。それだけではなく、音楽・環境・医療問題などの記事もこなすジャーナリストだ(最近では、『朝日ジャーナル』特集「原発と人間」において、「脱原発スウェーデンに学ぶ」で岩崎さんの名前を拝見した)。本書は2007年に刊行された『しあわせを呼ぶ和ごよみ』(学習研究社)に続く和ごよみの解説本だが、今回は解説のほかに、ご自身がどのように旧歴を楽しんでいるか、すぐにならいたくなるヒントが盛り込まれている。

 さて、現代では新暦太陽暦)が一般的になっているし、わたしも新暦でしか一年のスケジュールを考えないけれども、旧暦は明治五年に新暦が導入されるまで千年以上ものあいだ、日本で採用されてきたという。いわば、日本の季節や行事は、旧暦で考えると「しっくり感」がある、と岩崎さんは以下のように説明している。

・・・一年が十二か月になったり、十三か月になったりする旧暦は、決して「便利」ではありませんが、人間にとって一番身近な天体である月の満ち欠けが基準になっており、月を一目みるだけで日付がわかる「しっくり感」があります。事前を人間に合わせるのではなく、人間に自然を合わせた暦。それが「旧暦」です。(11頁)

そのときどきに季節感を感じること、ふと見上げる夜空から時の流れを感じること。身体に「しっくり感」を感じること。千年以上続いてきた旧暦からは、自分たちの生活の場をどう捉えれば生きていきやすいのか、その土地に住んできた人々の智恵を見出すことができる。

 同時に、旧暦というシステムからは、そこに暮らす人々が自然をどう見ていたのかを知ることが出来るように思われる。旧暦がもつ自然への眼差しについて、岩崎さんはこう続ける。「環境問題への感心が高まる近年、旧暦は、自然のリズムを意識しやすい『エコロジー時代の暦』として、再び注目を集めています」。新暦になじむことで得た利便性はもちろん、現代社会では欠かすことの出来ない有用な制度であることはいうまでもない。だが、本書を一読すると、もうひとつの暦——旧暦——の存在が決して失われているわけではなく、むしろわたしたちの生活にしっかりと根を下ろしていることがわかる。ただ、その来歴や意味を知ることなく過ごしてしまう言葉や行事が多いということもあるだろう。いまここで立ち止まり、もういちど暮らしの中にある自然のリズムを見つめ直すのに、本書はうってつけなのだ。

 本書は旧暦の説明、二十四節気の簡潔な説明に続いて、各月にある節句(中国から伝わった季節の節目)や雑節(日本独自の暦の行事のこと)、各地のお祭りについて、カラーのイラストを用いながら説明する。本書の特色は、「和ごよみ」に親しむということであるため、一年の始まりは旧暦の一月(新暦の二月)から始まっている。

 二月の内容をかいつまんで見てみよう。立春の直前の節分にはなぜ豆をまくのか——鬼を祓う由来、そしてそのときに投げる豆の理由を諸説紹介している。岩崎さんご自身は、この季節には次のような工夫をしているという。近年ブーム(?)になっている、節分の時に食べる恵方巻。岩崎家では「鬼の飾り恵方巻」を作って楽しんでいるようだ。また、受験シーズンににぎわう道真公ゆかりの天神さまで行われる「梅花祭」、浅草寺の「針供養」と江戸時代の吉原との関係など、「なるほどな」とうなずいてばかりだ。

 立夏がめぐる五月。この時期夏祭りを目にすることが多い。京都の「葵祭」や、東京の「神田祭り」「山王祭」「三社祭」といった夏祭りが都市部で行われるのは、その多くが「疫病払い、厄払い」の意味を持っていたためだという説明に、またもや「なるほど〜」と思ってしまう。夏場の疫病がいかに人々が懸念するものであったか——そしてそれをいかに防ごうとするか——という人々の切実な願いを感じる。

 折にふれて民間伝承を再解釈する岩崎さんの視点も興味深い。たとえば六月(旧暦五月)。神社に茅の輪が設置される時期。これもまた夏を健やかに過ごすためのお祓いの意味を持つというが、そんな中で自然の薬草の知識を持っていたがゆえに、「恐れられ、忌み嫌われることもあったかもしれ」ない女性の存在を、岩崎さんは指摘している——それは、民話に登場する山姥である。民話「二口女」(わたしは「喰わず女房」という題で知っていた)に登場する、夫の前では飯を食わず、夜になると大量の米を炊いて頭にある大きな口から飯をどんどんたいらげてしまうという山姥の物語をひきながら、自然と共生する「山姥」の存在を再定義する岩崎さんのまなざしは、水田宗子・北田幸恵編『山姥たちの物語―女性の原型と語りなおし』(学藝書林、2002年)とも共通する。

 もうひとつ本書から学んだこと。七月の七夕は、本来旧暦の七月——新暦の八月——に行われるもので、梅雨の季節の行事ではなかったということ。そして七夕の笹竹飾りにむすぶ短冊に願いを書くことが知られているが、「本来は織姫彦星の二星を詠んだ和歌を書いたり、勉学や習い事などの上達を祈る言葉を記すもの」なのだとか。自分の欲望をそのまま書くべきではなかった、と本書を読みながら、昔の自分を振り返ったりもしてしまう。

 「旧暦」や「季節の行事」とは少し趣を異にするが、八月に終戦記念日が取りあげられているのも、印象深い。岩崎さんは、八月は平和に思いをはせる月であることを次のように語っている。

お盆は、親しかった亡き人やご先祖様と今生きている自分とのつながりを意識し感謝する行事とわたしは考えていますが、それは、終戦記念日原爆記念日を思うときの心とも根底で通じている気がします。

 十代二十代のころのわたしは、目の前のことで頭も心もいっぱいで、過去の戦争は遠い未来の年老いた自分を想像するのと同じくらい、遠く感じるものでした。けれども今は少し違います。わたしが今、ここに生きているということは、六十年前、そして百年、二百年、千年の昔に同じようにだれかがいて、その人たちがつなげてくれた命があったからこそ、今わたしも子どもたちもここにいるのだということを意識するようになりました。それは「血のつながり」というようなささやなか縁よりもずっと深くて大きな、人の思いの連なりのようなものです。(112頁)

この岩崎さんのことばに秘められた思いは、本書で繰り返しあらわれているように思われる。自然とつながること、過去とつながること、未来へとつないでいくこと。自分という個は、様々な縁(えにし)によって存在しているということ。そう考えてもういちど周りをみまわし、自分の生活のあり方を考えること。

 これは、旧暦からまなぶさまざまな節目や行事の意味を考えることにも通じるのではないだろうか。旧暦は、人々の生活のひとつのあり方——過去をふまえつつ、見えない未来への不安を少しでも和らげながら、自分たちの生きる道をととのえる生活——を教えてくれる。こうした生活からは、土地に根ざす風習や行事が、ひとつの世界観を形成していることが見えてくる。夜空を見上げて月をめでながら、自分なりの「しっくり感」を身体に覚えていきたいと思わせる一冊である。


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