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『ブラッサイ-パリの越境者』今橋映子(白水社)

ブラッサイ-パリの越境者

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ブラッサイの名を聞いてだれもが思い浮かべるのは、パリの娼婦館の写真ではないか。

しっかりした腰つきの娼婦たちが、靴だけはいてあとは裸のまま、腰に手を当てて客の男を睥睨している。都会の妖しいイメージにぴったりで、謎と秘密とロマンにあふれる1930年代のパリを表象するイマージュとなった。

こうして、ブラッサイの写真なしに夜のパリを思い浮かべることはできないほど、パリと夜とブラッサイは三位一体化したが、その完結性ゆえにこれまで彼の全貌にはほとんど関心が持たれてこなかった。とくに日本ではパリの夜シリーズのファンが多く、これさえ見ていれば充分、ほかは要らないという偏りがあったように思う。

そんな単調なブラッサイ像を本書は丹念に覆していく。

読み終えて本を閉じたときに心に残るのは、19世紀の終りに生まれ、1984年に没したひとりの表現者の自由闊達な活躍ぶりである。自己規定されることを嫌い、肩書きをかいくぐり、超ジャンルを貫いた。その意味で同時代的なエネルギーをビンビンと感じさせる人である。

ブラッサイは生まれながらにして越境者だった。

出身地は中央ヨーロッパの山間地帯、トランシルヴァニア地方のブラッショーで、生まれた当時はハンガリー領だったが、ブラッサイが二十歳を迎える頃にルーマニアに割譲された。彼はその時期に亡命し、二度と再び故郷にもどらなかった。

本名はジュラ・ハラース。

ブラッサイの名は出生地にちなんで彼自身が付けたものである。

偽名を使って自己をフィクション化したくらいだから、人生の詳細については多くを語らなかった。だが、その代わりに単なる写真にとどまらない膨大な作品群を残した。

本書はその中から18点を選んで、それを読み解きながらブラッサイの「全身芸術家」ぶりを浮かび上がらせていく。パリ写真はわずかなので従来のファンには不満かもしれないが、それを埋めてあまりある未知のブラッサイがめくるめくように登場するのである。

シュールリアリスム雑誌『ミノートル』に関わってコラージュやオブジェへの興味が拓かれた。言葉への関心も深く、マルセル・プルーストジャック・プレヴェールなどと共同作業をおこなった。またピカソジャコメッティなどの大美術家とも、単なる撮影者を超えて交感しあった。

だが彼の真骨頂は、芸術家とのコラボレーションだけでは満足しなかった点ではないだろうか。フィルムが欠乏した戦時下ではカフェの客の言葉を書き写して「会話体文学」なるものを生み出し、また生涯を通じて壁の落書きを採集しつづけた。有名と無名は彼のなかでは常に等価だった。どこにも所属しない、自分の身しか頼るもののない亡命異邦人としての自意識を、生涯保ちつづけたのである。

本書は最後に、出発点である写真にもどってブラッサイの全体像を俯瞰する。

ブラッサイ自身は「写真家」と名乗らず「世界の人」と言っていたそうだが、この「世界の人」とは「群衆の中に湯浴みをし、あらゆる階級の人々の、あらゆる事象を活写すること」を意味する。

「彼には究極的にカメラが無くとも良い。それが書き言葉に転位したとしても、「世界の人」の凝視は、写真家の凝視なのである」

写真の力は世界に歩み寄り、それを受容するところにある。

カメラを通じて異国の都市に出合い根を下ろしたブラッサイは、そうした写真的生き方を十全に生きた人として感動を呼ぶ。

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