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『魅せられた身体-旅する音楽家コリン・マクフィーとその時代』小沼純一(青土社)

魅せられた身体

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「異文化に踏み込んだ音楽家

コリン・マクフィーという音楽家がいる。1900年にカナダに生まれ、アメリカで音楽教育を受け、パリに留学し、ニューヨークで本格的な活動を開始、とここまではありふれているが、バリ島のガムラン音楽のレコードを聴いたことで、人生が一変してしまう。

1931年にバリ島に渡り、通算5年島に暮し、ガムラン演奏を学び、論文を書き、ガムラン楽団を設立し、島を巡って曲を採譜した。またガムランの音律を取り入れた曲を作曲し、分厚い大著『バリ島の音楽』を著すなど、演奏家、作曲家、研究者の境界線上に生きた。

『魅せられた身体』は、この特異な音楽家コリン・マクフィーの活動を縦糸として、バリの文化から大きな影響を受けた芸術家たちの動きを横糸に織り込みながら、西洋音楽と非西洋音楽、移動と定住、音楽における「母語と翻訳」などのテーマを追っていく。

「バリ万国博覧会の衝撃」では、ヨーロッパ人がガムランに触れた1889年と1930年の博覧会の模様、それらに影響を受けたドビッシー、プーランクアンドレ・ジョリヴェ、あるいはマクフィーの留学中の師であるル・フレムやフレムや近いところにいたエドガー・ヴァレーズなどを紹介、さらにはオリヴィエ・メシアンピエール・ブーレーズなどの仕事にも触れている。

つぎの「銅鑼とガムラン」ではガムランの打楽器としての特徴が解説され、西洋音楽とのちがいが語られる。ガムランでは叩くことが演奏行為のすべてだが、西洋のオーケストラでは打楽器は主役を務めない。その理由を著者は、打楽器の音が「精神」にではなく「身体」にじかに作用してしまうことへの怖れがあったからではないかと語る。この指摘は、日本の祭りにおける太鼓の役割を思い起こすとわかりやすい。

つぎの「鍵盤の考古学」では、ありふれた楽器とみなされているピアノを取上げ、ピアノが弦楽器と打楽器の合体であること、1オクターブの音を鍵盤に割り振ってグローバルスタンダードの音を生み出したことを述べ、それに造反してジョン・ケージが生みだした、弦の間に物を挟んで音程を変化させるプリペアド・ピアノが取上げられる。

またアントナン・アルトーカルティエブレッソン、アンリ・ミショーなど、アジアの文化に魅せられた音楽家以外の仕事にも触れ、遠く隔たった土地への関心が非常に高まった時期だったことを描きだしている。こうした章のあいだにマクフィーの章が挟みこまれ、彼の活動の軌跡がひもとかれていくわけだ。

マクフィーはバリ島に渡ったとき、民族学者のジェーン・ベロと結婚していたが、これはマクフィーがホモセクシュアルであることを認めた上での結婚であったこと、「フェミニンな男性と恋に落ちるようになったのは、わたしの男性性に対する反感とナルシスムのためです……」とベロが発言していることなどは、これまで明らかにされてなかった事実で、ゴシップ的だが、現代にも通じる新しい夫婦関係が見えてくる。結局、ふたりは三度目のバリ滞在で別れてしまうのだが。

マクフィーはレコードでガムラン音楽に触れたのだったが、この音源を録音したのはヴァルター・シュピースというドイツ人の画家・音楽家だった。バリ島に渡ったのはシュピースが先で、ふたりは島で親交を結ぶようになる。

ちなみにシュピースもホモセクシュアルで、島の男性を恋人にしていた点ではマクフィーと同じだった。第二次大戦が接近して同性愛の締めつけが厳しくなったとき、シュピースはその咎めを受けて収容所に入れられ、船で移送される途中、日本軍に爆撃されて海の藻屑と消えた。マクフィーはシュピースが捕えられる5日前に島を離れ、アメリカに帰り着いて戦後を生きることになる。

しかしマクフィーの戦後は栄光とは無縁だった。二度目のバリ滞在の後に彼は「タブー=タブハン」というガムラン曲から刺激されたピアノのオーケストラ曲を書いているが、その後は作曲から遠ざかり、戦後10年近くたった1954年まで、なにも発表していない。アル中で、貧しく、忘れ去られた存在だったようである。

再起のきっかけは、1960年、カリフォルニア大学のロサンジェルス校に教職を得たことだ。ガムラン楽器を購入して演奏を伝授するなど、民族音楽において先駆的な活動をし、バリでの調査結果をまとめた『バリ島の音楽』を仕上げることにも心血を注いだ。だが、ゲラ刷り段階の1964年に65歳でこの世を去り、本が出たのはそれから2年後の1966年のことだった。

全体として20世紀の音楽文化史として括ることのできる内容だが、西洋音楽の文脈から俯瞰するのでなく、インドネシアの小さな島の音楽を核に据え、逆の方角から音楽文化を眺めているのが新鮮だ。西洋的音楽の行き詰まりを解消しようとした20世紀の作曲家の中で、マクフィーのやり方が極端な例だったことがよくわかる。島の音楽に踏み込んだことで、マクフィーの人生は音楽家としては生きにくいものになった。『魅せられた身体』というタイトルは、そんなマクフィーの生き方を象徴しているだろう。

最後に著者は、人は未知なるもの、「わたし」でないものに魅惑されるが、「その魅惑に触れようとするとき、手にしようとするとき、ひとは何ができるのか」と問いかける。文化の伝播が急速化している現代、安易に答えを求めるのではなく、状況に身を開きつつ問いつづけることこそが誠実な態度だ。自問自答の姿勢を貫くことで、著者はそのことを表明している。

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