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『非常階段東京』佐藤信太郎(青幻舎)

非常階段東京

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薄暮の東京が描く架空の時間

知らない街のホテルにチェックインし、カーテンを開けて窓の外を眺める瞬間が待ち遠しい。表通りに面した部屋より、裏側のほうがおもしろい。裏は裏同士でくっつきあっていて、ちょっと投げやりな、人に見られることを予想していない風景が目に飛び込んでくる。

そのおもしろさは、たそがれ時になるとより一層極まる。あたりは薄暗く、明かりのともった窓だけが浮かび上がり、暮らしの気配が濃くなる。おなじような情景は、高架電車の車窓からも体験できる。線路際に建つ家々の中に、テレビに見入る人や、卓袱台に座っている人の姿が見える。相手に気付かれない一方的な視線が、日常の流れを対岸から見ているような、あたたかな郷愁をもたらす。

ビルの非常階段から薄暮の街並みを写した『非常階段東京』を繰りながら、それに似たものを感じた。非常階段は超高層ビルにはないし、またビルの正面に設置されることもないから、せいぜい10階くらいの高さから見た街の裏側が写っている。だが、ホテルの窓や車窓から眺める薄暮の街とは、何かが決定的にちがう。

たそがれ時の街には、昼が夜にバトンを渡して去っていくざわめきがある。車は渋滞し、勤め帰りや繁華街に繰り出す人が足早に通りを行き過ぎる。ところが、これらの写真には人や車の姿がない。窓は四角い空白になり、道路はひと気の絶えた深夜のように閑散としている。

新宿歌舞伎町のもっとも人でにぎわっているはずのエリアでさえ、無人だ。はるか彼方の空にまだ夕暮れの光が残っているのに、人の営みは見えず、建物や広告塔や看板、駐車している車や自転車、街路樹、電柱や電線、墓地の墓石などだけが際立っている。長時間露光の撮影によって、動いているものがすべて消えてしまっているのだ。

つまりこれらの風景は、非常階段に昇ったらだれもが目にできるもののように見えて、そうではない。肉眼ではとらえられない、カメラアイだけが捕獲可能な情景なのである。夜景を撮った写真にはどれも同じ原理が働いているはずだが、これまでそのことを意識したことはなかった。車のテールランプが筋になった、ひと気のない夜景写真を数えきれないほど見てきたのに、無人という事実は頭にのぼらなかったのである。

それに気付かせたのは、撮影者の街との距離感だろう。窓の中までもが見えそうな高さから撮られているのに、部屋の詳細がはっきりしない。そのことが写真に漂うシュールな雰囲気を強めている。繁華街の煌々とした明かりはそのままに、人の姿だけが消えてしまっている奇妙さが、架空の都市を目の前にしているような印象を与えるのだ。

そして人間が消えた分、建物が饒舌になっている。とくに整然とした街よりも、細い道がくねくねと行き交い、三角屋根の家がばらばらな方角を向いて建っている雑然とした町並に、それを感じる。明るい色彩のビルの建ち並ぶ大通りの裏側に、しもた屋のくすんだ屋根がひしめくさまが、夜気に紛れて、密やかな会話を交わし合っているようだ。人の意図を超えた、東京の雑居性と物語性を感じさせる情景である。

40点ほどの写真が収められているが、大半が墨田区江東区荒川区江戸川区など東側の東京で撮影されており、西東京の写真は、新宿の歌舞伎町が何点か入っている以外は、わずかである。これは撮影者がそちらのエリアに親しみを持っているからだろうか。

民家とビルが入り交じっている度合いや、建物テクスチャーの豊富さは、東側のほうが際立っているように思う一方、都心や西東京にもそういう場所がいくらでもありそうな予感もある。あそこならどうだろう、ここならどうだろうと、頭の中で東京地図を思い浮かべつつシュミレーションした。このプロジェクトがこの先もつづくのだとしたら、今度は西東京や南東京を見てみたいとも思った。

最後に、どこかに人が写ってないだろうかと、一枚一枚をなめるように見ていった。すると見つかった。歌舞伎町の街路にふたつの人影が立っている。立ち話して位置を動かなかったために写り込んでしまったらしい。あと墨田区八広のビルの屋上にも、柵によりかかって遠くを見ている人影がいた。どちらも写真の中に置き去りにされたような不思議な雰囲気をもっていて、忘れがたい。

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