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『われらが歌う時』上下巻 リチャード・パワーズ著 高吉一郎訳(新潮社)

われらが歌う時(上)

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われらが歌う時(下)

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   「もうひとつの歴史を保存する図書館のような小説」


今年の7月にエミリー・ウングワレーというオーストラリアのアボリジニーズの女性画家の展覧会を見た。80歳に手が届くころになってはじめてキャンバスにむかい、86歳で亡くなるまでに3000点を超える絵画作品を描いた人である。すさまじい創作熱だが、驚いたのはそれだけではなく、彼女の描くものが、抽象絵画史がたどってきた色や形や偶然や象徴性などのテーマを一気に駆け抜けていたことだった。西洋美術史の知識はなにひとつないまま、それを成し遂げたことに、大きな衝撃を受けた。

「公の歴史」のほかに「もうひとつの歴史」があるのではないかという思いは、こういう事態に直面すると、ますます強くなる。既存の「音楽史」や「美術史」や「文学史」は過去のものを踏み越え、発展することに価値を置いて綴られてきた。そうやって一本の軸を通しながら、新しくでてくる表現を評価し、位置づけるというのは、言うならば表現の「グローバリズム」であろう。

ウングワレーの絵画はそれとは無縁の、ある地域や民族や個人の必然性から発したものだった。「西洋美術史」のように書物に記されているのとは別の、彼女の中で積み重ねられた「絵画史」がそこにある。残された作品群は、もうひとつの歴史を保存する「見えない図書館」のようだ。

リチャード・パワーズの新作『われらが歌う時』にも、これと同様の図書館のような意志を感じた。三代にまたがる家族の物語である。デイヴィッド・シュトロムはヨーロッパからの亡命ユダヤ人、ディーリア・デイリーはアメリカ生まれの黒人女性。1930年代末、まだ人種差別の激しいさ中にふたりは結婚する。困難を押し切ってふたりを結びつけたのは音楽への深い愛だった。歌っているとき、ふたりは肌の色のちがいを楽々と超えて解放された。

やがてふたりの間に三人の子供が生まれる。音楽の絆はゆるまるどころか、ますます強くなっていく。毎晩、家族そろってピアノを囲んで歌う。混じり合い、溶け合う歓びが体の中に蓄積される。音楽による家族の記憶が作られていく。

「近所の住人がラジオに釘付けになっているまさにその時、彼らは毎夜の歌唱大会に夢中だった。歌を歌うのは彼らにとってチームスポーツだった。歌こそがおはじき遊びであり、盤上陣取り合戦なのだ。まるで民謡に出てくる動物たちのように隠れた力に突き動かされて両親が踊るのを見るという経験は、子供たちにとっては、解きがたい神秘だった。子供たちも両親に仲間入りし、モーツァルトの『アヴェ・ヴェルム・コルプス』のリズムに乗って、まるでディズニーの「ジッパ・ディー・ドゥー・ダー」に合わせて踊るかのようだった」

人種問題というメインテーマがある。ディーリアは白人と結婚したことでバッシングを受け、取り返しのつかない事態に巻き込まれる。これだけでも充分にリッチな内容だが、音楽のテーマがそれをさらに深めている。黒人問題と音楽史のドッキングが、驚くべき相乗効果を上げているのだ。

ごく大ざっぱに言って、歌ったり叩いたりという音楽表現にはアフリカが大きな役割を果たし、オリエントではじまった弦楽器や管楽器は、ヨーロッパに伝えられてより洗練され、現在「クラシック音楽」として括られているさまざまな楽曲が作られた。二十世紀に入ってからはアメリカの黒人の生み出したジャズやブルースが、ポップミュージックに多大な影響を与えた。

だが、このようにジャンル分けされた音楽史は、この一家には無用だった。彼らに必要なのは楽曲だけだった。モーツァルトやバッハもあれば、ブルースもジャズナンバーもあった。彼らはそれを自由に味付けして歌い、シュトロム家特製のカバーバージョンに仕立て上げた。

「歌を歌っているかぎり、差別されて追放される心配もなかった。毎晩、あの満腔の声で歌を歌うたびに(この音に押し流されるようにしてデイヴィッド・シュトロムとディーリア・デイリーは巡り合うことになったのだが)一家は川をさらに上流に遡航して、より初期の、より純粋な場所へと近づくのだ」

歌いながら彼らは音楽の始原へとさかのぼっていく。意識しないままに「公の音楽史」を縦断し、「もうひとつの音楽史」を書き記していく。それは帰る場所のない亡命ユダヤ人と人種差別される黒人という、社会に居場所のない彼らだけに可能なことだった。世間的価値観の外側にいたからこそ、ジャンルの壁を易々と越えられたのだった。

この家族の音楽体験をベースとして、三人の子供のその後が語られていく。もっとも華々しい活躍をするのは天界の声をもった長男ジョナで、黒人クラシック歌手として過去に例のない成功を収めていく。弟のジョーイは兄の伴奏ピアニストをつとめ、一緒に各地を転々とする。兄が太陽とするなら彼は月のような存在だ。末っ娘のルースは音楽的才能に恵まれながらもその道に進まず、法律家を目指す。後半では、三人の成長の過程で起きた母の死を巡る謎が、「公の歴史」と「家族史」とを接合させていく。

物理学者の父の唱える時間論、彼が間接的に関与する核実験など、音楽以外の要素も多く、どこに重きをおいて読むかは人によってちがうだろう。だがどれをどう引っ張り出しても、ひとつのソロ曲となるような完成度がある。複数のテーマがバランスよく絡み合って物語に厚みを与え、完璧な球体を見ているかのようだ。

その球体の芯にあるのは、歌である。絵でも、文章でもなく、歌という原初的で肉体的な共通言語が中心に据えられたことで、ゆるぎない建築物のような小説世界が成立している。黒人解放運動が人間社会の発展するさまを示しているのに対し、歌う行為は始原の記憶を暗示する。ベクトルのちがう時間が交差するところに、家族の本当の歴史があるのだ。

 

歌や演奏シーンの描写がすばらしい。抽象絵画の歴史を一気に駆け抜けたエミリー・ウングワレーに共通する情熱とエネルギーが感じられる。この小説は私にとって「もうひとつの音楽史」を収めた見えない図書館だ。


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