『グローバリズム出づる処の殺人者たち』アラヴィンド・アディガ(文藝春秋)
「ITビジネスで急躍進するインドの光と影」
信頼できる友人の勧めで手にとり、感動して読み終える本がときたまあるが、その一冊だった。自分から読むことはぜったいになかったと断言できる。まずタイトルがいただけない。
実際、友人も感動したと言いつつもタイトルを忘れていた。グローバリズムなんとか……というので、思わず耳を疑って聞き返した。えっ、それって経済書なの? ちがうちがう小説、と否定した友人は、久しぶりに明け方まで読んだと言い足した。
そこで半信半疑で開いたのだったが、確かに読み出したら止まらないおもしろさ。いまはだれかれ構わずに、この小説、知ってる? と言い触れまわりたい気分である。著者は1974年マドラス生まれのインド人。はじめて書いたこの小説で2008年のブッカー賞受賞した(原題はThe White Tiger)。
では何がそんなにおもしろかったのか。一言でいえば、まったく知らなかったインドが描かれていたことである。21世紀に入って、インドがITビジネスの分野で一気に台頭してきたことはよく知られるが、ニュースがとりあげる華やかな部分を見るたびに不思議に思ったものだ。ついこのあいだまで、インドといえば生者と死者が隣り合っている、貧困が聖なる域に達している場所として認知されていた。そのインドはどうなってしまったのか?
物語は、起業家にのし上がった主人公の男が、インドと並ぶ経済大国となりつつある中国の首相に自分の半生を手紙にしたため書き送るというかたちで進んでいく。バルラムは田舎の貧困家庭の出身。学校の出来はよかったが、途中であきらめ、都会に出て金持ちビジネスマンのお抱え運転手になる。主人は気のいい人物だったが、「闇」ビジネスのしがらみに絡みとられて生きている。主人の秘密を知り、狭い車内で一緒にときを過ごすうちに、バルラムのなかにも邪悪な考えが発酵していく。ついには主人を殺し、奪った金でバンガロールに高飛びして事業を起こす……。
つまりこの小説には、ハイテク産業によって急速に変わり行くインド社会の実情と、悠久の時間をさまよう下層民の赤裸々な実情(ヒッピー旅行者には愛されたが、当事者にとっては悲惨きわまりない現実)とが描かれているのだ。ディーテール描写にすぐれ、ドライで皮肉たっぷりの語り口に、運転手の生活感情が恐ろしいほどリアルに投影されている。
著者のアラヴィンド・アディガは、経済ジャーナリストとしてキャリアが長く、タイムの南アジア特派員も務めている。解説によると、「インドの実像を伝えたい」というのが執筆の動機だそうだが、そのために小説という手法が用いられたことが私には興味深かった。
実像を描くには、ふつうノンフィクションやルポルタージューの方法がとられる。そのほうが事実の重みが読者の心を打つからだが、彼は「事実の重み」よりも、何でも投げ込める「虚構の器」をとった。インドの「実像」を感得させるには、そちらのほうが効果的だと判断したのだろう。
実在の人物を小説的手法で語るニュージャーナリズムが力を持った時代があった。だがこの小説が示すのはそれとは逆のルートだ。虚構の人物こそが真実を語りうる。実際の人物が発しえない言葉を想像するのが小説家の仕事だという信念だ。
ここに描かれる殺人はある意味で古典的なものである。そうする以外に宿命と絶縁する道はないと思い定めた男による、確信に満ちた犯行。書けば一行で終わる動機が、さまざまなエピソードに彩られている。そこに作品の命がある。
悲劇性を強調しないユーモラスな筆致がいい。究極の格差社会の姿と、そこに生きるもののあからさまな感情が、主人公のキャラクターから自然に滲み出て読者の胸に届く。著者がジャーナリズムの現場で知り得た事実と、想像したものとが、理想的な合体を見ている。
考えてみると、私はジャーナリストから小説家に転じた作家の作品に惹かれる傾向があるようだ。「現実」そのままではなく、想像力によって味付けされたリアリティー、濾過され語り直された「現実」に限りない魅力を感じるのだ。
くどいようだが、タイトル(と装丁)を見て敬遠するにはあまりに惜しい作品だ。だまされたと思って読んでみて欲しい。インドの現在が、ハイテクとリキシャが行き交う街のカオスが立ち上がってくる。バンガロールまで行かなくても、1800円であの街の空気を吸えるのだ。