『哲学史講義』上中下 ヘーゲル (河出書房新社)
哲学史をまとめて読んでいるうちに哲学が発展していくというストーリーに異和感をもつようになり、発展臭さがあまりない堀川本や熊野本や年表形式で発展ストーリーと無縁な『年表で読む哲学・思想小事典』を新鮮に感じるようになった。
岩崎本の序論にあるように、哲学の歴史を単なる列伝ではなく理性の発展の歴史としてとらえ、一つの学問にしたのはヘーゲルである。発展ストーリーの是非を考えるなら、どうしても張本人のヘーゲルの哲学史に当たらなければならないだろう。
幸いヘーゲルの『哲学史講義』にはわかりやすいと評判の長谷川宏訳がある。前から読みたいと考えてきたが、この機会に読んでみることにした。上中下三巻、総ページ数1350ページ余の大冊で、なんとか最後まで読み終わった。
確かにヘーゲルの本とは思えないくらい読みやすいが、それでも難物であることに変わりはない。
『哲学史講義』は三つの部分からできている。
- 哲学者の伝記
- 哲学者の思想内容
- 発展段階の概観
伝記部分は要するに伝記だからすらすら読める。発展段階の概観も尾根から見はるかす部分なのでわかりやすい。問題は思想内容で、絡みあった藪を山刀で打ち払い、かきわけていくような体力勝負だ。
山刀が必要になるのはヘーゲル論理学の用語が蔓のように絡まりあっているからである。「否定」や「抽象的」、「概念」といった言葉がしきりに出てくるが、これらはすべてヘーゲル語であって、普通の「否定」や「抽象的」、「概念」ではない。他人の思想内容を無理矢理自分の用語で絡めとろうとしているのだから、もとの思想の難解さにヘーゲル論理学の難解さがくわわる。しかし、もとの思想の知識があればヘーゲル論理学の思考パターンが透けて見えてくるという利点がある。特に哲学史の本をまとめて読んだ後だったので、思ったよりも理解しやすいという印象があった。
たとえば運動を否定したゼノンのパラドックスの条で運動とは「否定性と連続性の統一」という、いかにもヘーゲル的な表現が出てくる。このままではわけがわからないが、ちょっと先で次のように敷衍されている。
わたしたちが一般に運動について話すとき、わたしたちは、物体がある場所にあり、つぎにはべつの場所にあるという。が、運動している物体はもはや第一の場所にはないし、いまだ第二の場所にもない。どちらか一方にあるとすれば、それは静止していることになる。二つの場所のあいだにある、というのも正確ないいかたではない。二つの場所のあいだのある場所にあることになって、おなじ困難が生じるからです。だが、運動するということは、この場所にあると同時にこの場所にないことである。それが空間および時間の連続性ということであり、それによってはじめて運動が可能になるのです。
この説明がゼノンのパラドックスの解決になっているかどうかはともかくとして、ヘーゲル論理学のわかりやすい説明になっているのは御覧のとおりだ。
ヘラクレイトスの「なる」を説明した条でははからずもヘーゲル論理学の核心を語っている。
「なる」はまだ抽象的なものですが、しかし同時に具体への第一歩、すなわち、対立する観念の最初の統一体です。対立する存在と非存在は、「なる」という関係のなかでは静止せず、生き生きとうごくことを原理とします。……中略……だから、ヘラクレイトスの哲学は過去の哲学ではない。その原理はいまも不可欠で、わたしの『論理学』でも、はじまりのところ、「存在」と「無」のすぐあとに位置をしめています。「ある」(存在)と「あらぬ」(非存在)は真理なき抽象概念であり、「なる」こそが第一の真理だ、ということを認識するには、大きな洞察力が必要です。分析的思考は、「ある」と「あらぬ」をべつべつにして、どちらも真にして有効なものと考えます。ところが、理性は一方のうちに他方を、一方のうちに他方がふくまれることを認識し、――こうして、絶対的な全体は「なる」と定義されるのです。
ヘーゲルは「真理とは、「なる」過程のこと」という言い方もしている。ヘーゲル論理学というか、ヘーゲル弁証法を勉強したいなら『論理学』より本書の方がはるかにとっつきやすいかもしれない。
ここで目次を掲げておく。まず、上巻。
序論
東洋の哲学
- 中国の哲学
- インドの哲学
第一部 ギリシャの哲学
はじめに
七賢人
時代区分
第一篇 タレスからアリストテレスまで
第一章 タレスからアナクサゴラスまで
哲学史とはなにかを論じた条は一番面白かった。ヘーゲルによれば「哲学史の全体が内部に必然性のある一貫したあゆみ」であり、「哲学史上のどの哲学も必然的なものであったし、いまなお必然的なものであり、したがって、どれ一つとして没落することなく、すべてが一全体の要素として哲学のうちに保存されている」としている。ただ、こういうことが言えるのは自己展開する絶対精神を認めた場合のことである。
東洋の哲学を論じた条はずっと興味があったが、東洋を頭から幼稚と決めつけている上に、ブッダと老子を混同していてがっかりした。知らないことは書かなければいいのに、世界のすべてを理解しなければならないという強迫観念がヘーゲルらしいところだろうか。
「第一章 タレスからアナクサゴラスまで」はヘーゲル流の発展ストーリーで完全制圧していて、本人としては得意なのだろう。
「第二章 ソフィストからソクラテス派まで」のソクラテスを論じた条は自己へかえっていく意識と共同体が視野にはいってくる。『精神現象学』ではどうなっていただろうか。
意外だったのは『雲』でソクラテスを笑いものにしたアリストファネスを「冗談の底にはまじめなポリスへの思いが横たわっている」と絶賛していることだ。『雲』は読んだことがあるが、そんな高級な喜劇ではない。
次は中巻である。
第一部 ギリシャの哲学
第一篇 タレスからアリストテレスまで(つづき)
第二編 独断主義と懐疑主義
第三編 新プラトン派
プラトンの条は力がこもっているのはわかるが、かなり無理があるのではないか。『エンチクロペディ』よろしく「弁証法」、「自然哲学」、「精神の哲学」にわけて論じており、「弁証法」を代表する作品として『ピレポス』、『ソフィスト』、『パルメニデス』、「自然哲学」を代表する作品として『テアイテトス』、「精神の哲学」を代表する作品として『国家』を論じている。この中では『国家』しか読んだことがないので「弁証法」と「自然哲学」は留保するが、プラトンの理想国家批判はいかにもヘーゲルである。
すなわちプラトンの国家観はギリシアの発展段階(個の原理が確立せず、共同体の原理こそがすべての基礎をなす)にもとづくもので「どんな人も自分の時代をとびこえることはできない」のだから、近代的な視点から批判するのは見当はずれな見解をうむだけだというのだ。
そう言いながらも、こう批判している。
そもそも一つの理想が理念ないし概念の力によって真なる内容をもつとき、それは幻ではなく、真理です。そして、そのような理想は余計なものでも無力なものでもなく、現実的なものです。真の理想は実現されるべきものではなく、現実そのものであり、唯一の現実である。――そのことが第一に信じられなければなりません。ある理念が実現するには立派すぎるとすれば、それは理念そのものにいたらないところがある。プラトンの国家が幻であるとすれば、それはその国家をうけいれるほどには人類が立派ではないからではなく、立派に見える国家が人類にとって欠けるところがあるからです。
プラトンをうまくヘーゲル化できなかったので、面倒くさくなって滔々と自説を開陳したということだろうか。
アリストテレスも『エンチクロペディ』に準じた論じ方をしているが、こちらはプラトンの条よりも無理がなく、説得力があるように感じた。
「第二編 独断主義と懐疑主義」と「第三編 新プラトン派」は読んだことのない哲学者ばかりだが、発展ストーリーにうまくはまっていると思った。専門家の評価は別かもしれないが。
中巻を読むのは骨だったが、下巻は一番面白かった。まず、目次。
第二部 中世の哲学
はじめに
第一篇 アラビアの哲学
第二篇 スコラ哲学
- スコラ哲学とキリスト教の関係
- 歴史的概観
- スコラ派全体の一般的立場
第三篇 学問の復興
- 古代研究
- 哲学独自のこころみ
- 宗教改革
第三部 近代の哲学
はじめに
第一篇 ベーコンとベーメ
第二篇 思考する知性の時代
第一章 形而上学の時代
第二章 移行期
第三篇 最新のドイツ哲学
「第二部 中世の哲学」の「はじめに」では原罪の意外な解釈が出てくる。ヘーゲルは「人間が生まれつき悪だ」というのは苛烈すぎるとし、こう述べている。
原罪の観念をわたしたちのことばでいえば、人間のうまれつきの素朴なありかたは、神を前にした本来のありかたとはちがうもので、本来のありかたを実現しなければならないことが、まさに原罪を負っていることです。
まさか智慧の林檎を食べたのは人間の本来の姿からの逸脱だと言っているわけではないだろうが、思いきったことを言うものだ。
「第一篇アラビアの哲学」は固有名詞の羅列で終わっているが、近世西洋哲学の発展がアラビア哲学に負っていることをいち早く認めていたことだけでも評価すべきかもしれない。
「第二篇スコラ哲学」では形式論理に終始したスコラ哲学を徹底的に罵倒しているが、注目すべきはスコラ哲学を生んだのはゲルマン民族の民族性だとしている点だ。ヘーゲルは自らもその一員であるゲルマン民族の野蛮さをこきおろすが、そこには後段につながる伏線が仕こまれている。
この民族[ゲルマン]のうちには無限の苦痛、途方もない苦悩がうずまいていて、そのありさまは十字架上のキリストにも比すべきものです。かれらはこのたたかいをもちこたえねばならなかったので、たたかいの一面をなすのが哲学ですが、最初は外からおそいかかった哲学が、やがて精神の内部に位置づけられる。この未開民族は野蛮な鈍感さをしめしつつも、心や心情には深いものがあって、そこに精神の原理がはいりこむと、精神と自然のたたかいがどうしてもはげしい苦痛をもたらさないではすまない。
ゲルマン民族が内包し、苦しんでいた矛盾から宗教改革と近代哲学が立ち上がってきたという見立てがヘーゲルの哲学史の肝になっているようである。
野蛮で愚鈍だが、内心に敬虔な魂をもったゲルマン民族の代表者としてヘーゲルが最大の評価をあたえているのはベーメである。ベーメは「はじめてのドイツの哲学者」とされ、ベーコンやデカルトと同格かそれ以上に重く位置づけられている。Ich(わたし)と Nichts(否)にひっかけた Ichts という造語を堕天使ルチフェルとからめて考察した条は鬼気迫るものがあり、シェリングの『人間的自由の本質』に通ずるものがある。
デカルトのことは千年の迂回の後に「哲学の土台をあらたにつくりだした英雄」と持ちあげているが、主体への回帰を評価しているだけで本心ではそんなに買っていないのではないか。
意外だったのはスピノザに対する冷たい扱いである。近代哲学の中心に位置するとか、スピノザ主義にあらずんば哲学にあらずと書きながら、冷たく突きはなした書き方になっていて、ベーメに対する熱っぽい語り口とは対照的である。
デカルトやスピノザに較べれば、英国の経験論者の方が共感をこめて語られている。ヘーゲルはベーコンを思いのほか買っているし、ロックに対しては罵詈雑言を浴びせる一方で個体性への注目を評価している。デカルトやスピノザが独断論的なのに対し、ベーコンやロックは外物にぶつかり、格闘し、乗り越えるという「経験」を重視しているからだろう。
「第三篇 最新のドイツ哲学」はカントからフィヒテ、シェリングにいたるドイツ観念論を論じており、ヘーゲル哲学史の白眉というべき部分である。勝利者の傲慢さか、はっきり言って上から目線で書いている面がなきにしもあらずだが、先輩哲学者に真剣勝負を挑んでいて、思想のドラマの大団円をみる思いがする。