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『Showa Style-再編・建築写真文庫<商業施設>』都築響一編(彰国社)

Showa Style-再編・建築写真文庫<商業施設>

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「写真で見るとどんなものでも懐かしい」


夜、ジャズをかけながらこの本を開く。なぜジャズなのか、自分でもよくわからないが、いまかけているのはブッカー・リトルのアルバム。彼の高らかなトランペットと、スコット・ラファエロの腹に響くようなベースのサウンドにのって、あの時代の空気が室内に充ちてくる。どうやら私のなかでは昭和の香りはモダンジャズのサウンドと分かちがたく結びついているらしい。

第1章の扉を開く。後楽園ゆうえんち、二子玉川園、豊島園、丸の内日活、コマ劇場、東急文化会館、テアトル東京……と名前をつぶやくだけでも心がざわめくような場所が写真になって登場する。屋外の写真は広い空が気持ちを大きくし、屋内では建築意匠の細部が全身の感覚を目覚めさせてくれる。松竹映画劇場ホールの写真に目がとまる。菓子パンの並んだ売店のガラスケース。そのとなりには「雪印牛乳」と書いた牛乳の冷蔵ケースがある。映画館で牛乳を売っているのはいまの感覚では奇妙だが、かつては右手にあんパン、左手に牛乳というスタイルでスクリーンに見入るのが正しい映画鑑賞法だった。

天井が吹き抜けで、2階部分には鉄製フレームに色つきのプラスチックボードをあしらったモンドリアン調の仕切り壁が見える。売店の上部には小さな屋根が張り出し、天井から下がったチェーンがそれを吊っている。この屋根は何のためか。単に照明を仕込むためらしいが、この屋根の存在が売店に親密感をかもし出している。よく磨かれたプラスチックタイルの床、鉢植えのやしの木、ウィンドウケースを支えている4本の細い脚までに感じてしまい、たった1点の写真を見るのに活字を追うくらいの時間がかかってしまう。

昭和28年から45年までの17年間、『建築写真文庫』というヴィジュアル文庫が145巻に渡って刊行された。飲食関係の巻だけを拾っても、レストラン、和風喫茶店、洋風喫茶店、料亭の座敷、料亭の玄関、小料理店、すしや、そばや、コーヒースタンドと実に細かく取材されている。さらに驚くのはそれがたったひとりの人間によって制作されつづけたことだ。北尾春道という建築家で数寄屋研究者だった人物で、取材・撮影・編集の3役をこなしながら17年間奮闘したのである。『Showa Style』は、その北尾の仕事に感銘した都築響一が、そのうち79巻を再編集して1冊にまとめたものである。これだけの偉業をなしとげたにもかかわらず、建築界ではほとんど忘れられている北尾の生涯についても、遺族を取材して後記で触れている。

「単に専門家のためのレファランスにとどまらない、広く外を向いた編集のスタイルが、北尾春道の真骨頂だった」と都築は述べるが、眼だけでなく全身を使って写真を堪能してしまうのはそのためだろう。街角にある建築物を淡々と撮っているようでいて、写真からにじみ出るものは機械的ではない。自己主張をまじえずにカメラに仕事をさせながらも、気持ちは弾んでいる。パリを撮ったウジェーヌ・アジェはクールに撮っているように見えても、現場に立って同じ角度でカメラを構えると彼がノリのいい人物だったのがわかると、大島洋は『アジェのパリ』のなかで書いているが、北尾もアジェに似たところがありそうだ。

先の映画館のホールは無人だし、ほとんどの写真が空間だけを撮っているが、ときどき人も入っている。純喫茶のドアガール、ナイトクラブの受付、つなぎを着て作業するガソリンスタンドの従業員、時計屋のウインドウに見入るお客、美容室のシャンプー台で洗髪してもらっている人……。時代の空気や街のきらめきを象徴する人の仕草に敏感で、どの写真には人を入れ、どれには入れないかは、理屈ではなく直感的な判断だったように思える。しかも新しいものだけに反応するのでなく、そばやの厨房ではゆで上がったそばを盛りつける人を撮ってもいるし、温泉浴場では女湯も撮影するなど、色気もたっぷりある。

145巻は都市に暮らす人間が関わるありとあらゆる建築空間を網羅していた。建物の構造や細部の収まりなどがぬかりなく押さえられているから、建築家のヒント集になったのはまちがいないが、シリーズ全体を貫いているのはそうした実利性を超えた、街と建築物とそこに行き交う人が生みだす空間の輝きだ。だから建築の門外漢の私のような者までもがまじまじと見入ってしまうのである。

見ているとひたすら「懐かしい」。だがそれしか感想がないのでは書評は書けないので手元に置いてときおりめくっていた。そのうちにいろいろなことが頭のなかを駆け巡りだした。写真のおもしろいのはこういう点で、開いた直後には思いつかなかったことが見つづけるうちにほどけだす。

ここに登場する昭和の香りたっぷりの建物は、まったく消えて無くなったわけではなく、地方都市に行けばいまもあるし、ときには東京の街中でも出くわすことがある。でもそれらの実物を見てもあまり「懐かしい」とは思わない。いや思うことは思うのだが、写真で見るほうが何倍も「懐かしい」のである。これはどうしたわけか。実物がそこにあるというのに、写真のほうに感じてしまうのは矛盾してないだろうか。いや、そうではない。現実と写真の関係にはそうしたねじれが存在する。写真の本性はそこにあるのだ。

ほとんどシャッターの下りている地方の商店街でこういう店に出会ったら「懐かしい」と思う前に「わびしい」と感じるだろう。東京でも同じで、風前の灯のような感じがして「哀れさ」のほうが先にたつ。近所にまさしくこの写真集に出てくるような喫茶店があるが、たばこの匂いがしみ込んでいるし、陰気とまでいかないものの照明が暗くて、しょっちゅう行く気にはならない。かように実在する「昭和」を熱烈にはサポートしてない私なのだが、その喫茶店も写真で見ればとてつもなく懐かしくてたまらないはずなのである。

「昭和」のただ中にいるときには、こうした建物ばかりだったから特別な感情を抱いたりはしなかった。当然のものとして受け入れ馴染んでいただけだ。それをひとつひとつ写真に撮っていた北尾の行為は一般人の眼にはさぞや酔狂なものに映っただろう。彼は対象となる建物だけをフォーカスして撮った。となりに似たようなものが並んでいても、フレームアウトした。それが出来るところが人間の眼とカメラの眼の違いであり、そうやって撮られた写真をいま見ると、その建物が唯一無二な存在として強く迫ってくるのである。建っていた時代にはそういう感慨をもって眺めることは出来なかった。写真になってはじめて、群衆のなかの個の顔がクローズアップされたように、かけがえのないものとして浮上してくるのだ。

実物より写真で見るほうがずっと懐かしく、かつかけがいのないものに感じられるというこの矛盾は、写真に私たちと現実との関係を切断する作用があることに関わっている。シャッターを押した瞬間、対象はいったん「死」の領域に入る。そして写真となって出てきたときに、より正確にはその写真が人によって見られたときに、「再生」する。死んだものが見るものの意識のなかでよみがえるこの奇妙なトリックのせいで、写真に撮られたものはすべて「懐かしさ」を伴っているのだ。撮影者の北尾はそのことを熟知していた。心情を入れ込まずにノリだけで撮ったほうがそのトリック効果が高まることをわかって撮っていたのである。

この写真集は昭和の街の記録だが、同時にこのなかには写真でしか出会えない街が存在する。それはページを繰りながら見る人が無意識のうちに造り上げていく夢の街である。写っていない部屋の姿を思い描き、となりにあったであろう建物を想像し、街路の雰囲気に心を巡らす。開くたびに惹かれる建物が微妙に変わり、夢の街の風景も変化する。見るものの気持ちのなかで無限に膨らませることができる、枕元の友としてこれにまさるものはない写真集である。版元の資料室に眠っていたものをよみがえらせてくれた編者の眼力に感謝したい。

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