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百年文庫30『影』 ロレンス 内田百閒 永井龍男(ポプラ社)

『影』(百年文庫30)

→紀伊國屋書店で購入

「アンソロジーは名作を掘り起こすスコップである。」

好きな曲をセレクトして自作のコンピレーション・アルバムを作ることは音楽の世界ではよくおこなわれてきたが、それと同じことが文学の世界でも起きつつあるらしい。気に入った短編小説を集めて私的なアンソロジーを組むのである。電子書籍のリーダーの登場が大きいだろう。紙の書籍をばらしてスキャンしリーダーに入れれば簡単に編める。そのために書籍の背を裁断する商売が繁盛しているらしい。
 

紙の本が好きな私は、長旅でたくさんの本を持っていけないような状況にでもならないかぎり、電子書籍で文学を読むことはないと思うが、アンソロジーという考え方には惹かれる。編み直すことで埋もれていたものがよみがえったり、別の読み方が可能になったりということが、たしかにあるからだ。

本書もそうしたアンソロジーのひとつである。 D.H.ロレンス「菊の香り」、内田百閒「とおぼえ」、永井龍男「冬の日」の3つが『影』というタイトルのもとに集められている。いちばん長いのはロレンスの「菊の香り」だが、手入りにくい点でもこれがいちばんだろう。あとの2編はいまも入手可能な文庫で読むことができるけれど、ロレンスの「菊の香り」が入っていた文庫は絶版になっている。

「菊の香り」は、しっくりいっていなかった夫婦の夫のほうが死んでしまうという話だ。家に運び込まれてきた夫の遺体を見たとき、妻の中に湧いてきたモノローグがすごい。夫婦はもともと他人でしかない、というのはよく言われることだが、そういう世間一般の共通認識をこのように描いてみせるのが短編の凄みなのだと圧倒された。

「菊の香り」はタイトルとしては地味である。また日本の読者には和風すぎてイギリスの炭鉱町とイメージがつながりにくいし、また筋にも直接関係がない。だがこれが登場するのとしないのとでは作品の奥行きはまったくちがってくる。近距離で描かれていた事柄が、このタイトルを付けたことで普遍性を獲得している。短編には小道具が必要だが、どこにも咲いていそうな茶色い小菊のつんとくる香りが心憎いばかりに決まっている。

内田百閒の「とおぼえ」はいかにも百閒らしい怪談だ。最後の数行でするっと主客が入れ替わる。まだ夏の名残で生暖かな風の吹いている秋の宵、一休みしようと坂上の氷屋に入る。中はがらんとしてかき氷はなくて代わりにラムネを勧められ、それを飲みながら主人と話をする。知っている店ではない。見知らぬ町を訪ねた帰りに立ち寄っただけなのだ。会話がちぐはぐで、その亀裂がしだいに開いて異界へ誘う。低周波の電波がピタッと合ってしまったような、めったにないけれど身に覚えのある状況である。そう感じさせるところが百閒の真骨頂なのだろう。

永井龍男の「冬の日」は年末になると無性に読みたくなる作品である。庭で仕事する畳屋親子、張替えた畳のにおい、砂糖醤油をつけて焼いた切り餅、年越し蕎麦……。年の瀬独特の風情が描き込まれ、乾いた空気のにおいすら漂ってくる。その大晦日の慌ただしさをまとめ上げているのが元旦の夕陽である。朝陽ではなく冬枯れの枝越しに見える夕陽であるのにふいをつかれてページから目をあげる。煮えたぎるような夕陽の赤に引き寄せられる主人公の登利の姿が瞼を離れない。情欲を夕陽に重ねて生命力として表現しているのが見事だ。

アンソロジーの魅力は、こんな作家がいたのか、この人がこういう作品も書いていたのか、という驚きを与えてくれることだろう。たとえばロレンスといえばだれもが思い浮かべるのは『チャタレー夫人の恋人』で、それを読んでいる人は多いと思うが、短編にまで手を伸ばしている人は少ないだろう。事実、私は今回はじめて読んでちょっと衝撃を受け、もっと読みたいという気になっている。

内田百閒は現代でもファンは多いし、読み継がれている作家だと思うが、永井龍男はどうだろう。あまり知られていないのではないか。ロレンスの『チャタレー夫人の恋人』のように、あの作家と言えばこれというような代表作がない場合、いい作品を書いていても人の記憶に残りにくいのである。アンソロジーはそうした名作を掘り起こすスコップのような役割を果たしてくれるだろう。本の出版点数が増えて巨大な森と化している昨今、好きな作家に出会うための道しるべとしても機能する。

『影』は「百年文庫」という短編のアンソロジー・シリーズのなかの1冊で、漢字一文字のタイトルの付いた100冊から成っている。2010年秋から刊行がはじまり、いま半分ほどが出版されたところだ。通勤電車のなかで一冊読めるほどの薄手の本だが、手にしっくりと馴染む装丁が美しい。思わず人に贈りたくなるような雰囲気もあって、だれにどれをプレゼントしようと考えるのもなかなか愉しいのである。


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