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『大東京ぐるぐる自転車』伊藤礼(東海大学出版会)

大東京ぐるぐる自転車

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「自転車が東京の地勢に目覚めさせる」

どこに行くにも自転車に乗っていた時期があった。90年代終わりくらいだから10数年たつが、仕事のために借りた部屋が電車で行くには近く、歩いていくにはちょっと遠い半端な位置にあり、なら自転車があれば便利だろうと買ったのである。乗ってみて驚いた。右左と足を動かしてこいでいけばどこにでも行ける。切符を買ったり改札をくぐったりの手間がなく、いつ来るかわからないバスを待つ必要もない。すべてが自分次第というところが首輪を外された犬のようにせいせいしたのだった。

いまは乗らずに歩いている。歩くことのおもしろさにとりつかれている。スピードを比べたらもちろん自転車のほうがずっと速いけれど、ちょっと横丁を曲がったり、狭い路地を曲がったり、なにかに見とれて立ち止まったりというには、歩きのほうがずっといい、そう思っている。でもまた自転車に回帰するときが来くのではないかと、伊藤礼氏の自転車本の第3弾を読んで思った。

彼は自転車の前は車に乗っていたらしい。エンジン付きの自動車から自力の自転車に移るのは大きな動力転換である。しかもそのシフトが行われたのは70に手が届こうという歳のとき!マイカーで通いなれた勤め先の大学に古自転車に乗っていったのをきっかけに、二本の足でこぐ乗り物にとりつかれ、人生の関心の中心を占めるようになったのだった。

「自転車にまたがると、このままこいてゆけば青森にでも下関にでも行けると思う。ひそかに胸が躍る。自動車にはそんな感激はない。自動車の座席に座っても、その座席が青森や下関と直結しているような気持ちにならない。青森や下関に行けると思う以前に、フトコロの財布が気になる。すべてはガソリンを買っての話であるから、財布が、自由な気持ちを殺してしまうのだ。自動車は他力本願の道具だ。それに対して、自転車は人間の腹が空いていないかぎりはどこまでも走ってゆくし、人間というものはそもそも腹が空いていないから人間でいられるのであるから、「人間」といった場合には、すなわち自転車をこぐ能力のある人間なのである」

大いに共感するくだりである。腹が空いたら何か食べなければならず、それには金が必要であり、その意味では車にガソリンを給油するのと理屈はおなじなのだが、そうとは感じないのが人間である。腹が空くという感覚は自分の身で感じるものだ。足が疲れた、お尻が痛いというような苦痛も同じで肉体に感じ、自分でなだめたり、励ませるところがモーター付きの自動車とはまったく別なのだ。

「大東京」とタイトルにうたっているように、巡るのは東京都内である。前著のように日本列島を股にかけるような遠出はせず、近場にかぎっているので私がよく歩いているような場所も登場する。東京には坂が多い。しかもその出現の仕方が「神出鬼没、無秩序、かつ気まぐれ」だという指摘は、自転車愛好家ならば首をそろえてうなづくだろう。上ったと思ったらすぐに下りになる、何のためにエネルギーを使ったのかわからないような場所によくでくわす。だが、よく考えれば坂はでたらめに出来ているのではなく、秩序があり、そのことがわかると地形への興味が一気に開花するのだ。

道道路の由来について調べたり、かつて川だった小石川の千川通りを遡ったり、その手前で小石川後楽園に寄って神田上水跡があるのに驚いたり、新河岸川に北進する途中で白子川という名の川に遭遇して感動したりと、本書に川や水辺の話が多く出てくるのは、その証拠だろう。東京を走ることで氏は地勢に意識的になった。都心の凹凸が水の削り取った跡であることに気づき、それまでわからなかった法則が見えてきたのだった。

とても特徴のある文章である。自分のなかで何かが意識に上る過程、それを探っていく過程、何らかの結果が得られる過程、というようにプロセスを飛ばさずに丁寧に綴っていく。「疑問を抱く、というのは大切なことだ」と述べる彼は問いかける人なのだ。他者にではなく、自分に問い、答えを探そうとする。着想から行動にいたる手順が逐次書かれているところに非常に共感した。早く結果を知りたいという読者をはなから無視し、目的の達成を目指すタイプの人とも袖を分かっているのも潔い。

北の方面が手薄なので「自衛隊を越えた北」に向かおうと決意した旅では、目的地にたどりつけないまま紙幅が尽きるというのを繰り返す。

西荻窪のあとは青梅街道があって、自転車屋があって中島飛行機跡があった。そのあと馬がいて、それから石神井池と住宅地。そんなものを見ていても、心の中にはいちいち波風が立つ。そして最後が白子川だ。これでは疲れる。自転車で疲れるというのは、尻が痛いとか足が疲れるとか息が切れるというだけのことではないのである」

自転車をこぐという行為の最終目的は無我になることだと分かっていても、なかなかそれが果たせないのは、考えるのが好きで無我の境地に入れないからだ。加えて今回は巡っているのが東京である。自分と関わりの深い場所であればあるほど湧いてくる疑問は多くなる。東京に生まれ、杉並に50年暮らしている氏にとって、何を見ても何かを思いだしてしまう土地、それが「大東京」だと言えるだろう。

しかも、記憶が呼びさまされたり、疑問が生じたりするというのは、走っている最中では一瞬のことだが、その旅を記そうとして原稿にむかうときはそうはいかない。記憶の元を遡ろうと留まり、疑問を解決しようと調べものをし、考えにふけるうちに先に進まなくなる。右、左とペダルを踏めばいやがおうにも前進する自転車との差だ。つまり、本書の目的は終わった旅を報告することではなく、過去の旅をサカナに書くというもうひとつの旅をすることなのである。その念入りな構造が見えてくると本書の味わいはより深いものになる。

この文章は好きだ、肌に合っている、と心から言えることはめったにない。本書はその意味で今年の大きな収穫だったし、寄り道の多さが草森紳一を思い出させたことも、草森の文章の大ファンである私には二重のうれしさだった。


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