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『ON THE CIRCLE』普後均(赤々舎)

ON THE CIRCLE

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「円形の小宇宙、そこに生起する生命感」

具象と抽象を分けるものは何だろう。両者にはっきりとした境界はあるだろうか。抽象は表現者のどのような衝動から生じるのか。とそんな考えにふけることがある。

抽象化への情熱はどんなメディアにも見いだせるが、写真表現にも具象的な写真と抽象的な写真とがある。撮られているのが、ボールだな、とか、泣いている人だな、というふうにだれにも了解可能なのが具象的な写真。それが抽象的な写真になると、球体だがボールではないかもしれない、泣いているかもしれないが、笑っているようにも見える、というように被写体の意味が広がる。

抽象写真と具象写真を分けているのは、端的に言えば、作者の現実へのまなざしだ。写真家の身のまわりの現実をそのまま提示すれば具象的な写真になり、その反対に、現実を濾過し理念を抽出するよう撮影しプリントすれば抽象度は上がる。この世に抽象物が存在するわけではなく、そそがれる視線によって抽象にも具象にもなるのだ。

前置きが長くなったが、普後均の写真集『ON THE CIRCLE』の話である。空き地にある円形貯水槽の上に、さまざまなモノや人物が配されている。最初に登場するのは、水槽の表面がシートで覆われ、小石が置かれている写真。つぎは両掌を広げて立っている首のない人物像。3点目はサークルの上に赤ん坊が這っている写真で、4点目は浅い水たまりに天使の翼のようなものがついたオブジェが立ち、5点目では円形のうえが枯れ葉が覆われ……と説明しだすときりがないのでここで止めるが、円形の空間のなかに展開する豊穣なイメージが、つぎつぎとページをめくらせていく。

途中からは進むだけはなく、引きもどされる感覚もあじわう。広がるだけでなく、縮小する感じもある。拡散もあれば、凝縮あるし、堆積もある。それらは、作者がサークルの上に配したモノや人物と、その演出によってもたらされている。前に登場したモチーフがわずかに変化して再登場することもあり、記憶が重なり、増幅して、思わぬ方向に結びつき、被写体の直接的な意味を超え、生命が呼吸しているような感覚に引込まれるのだ。

ここで、はじめに取りあげた具象と抽象の問題を考えてみたい。このなかで具象写真の典型と言えるのは記念写真だろう。養護学校の生徒数人が手にセロファン包みの花を持って制服姿で座っている写真や、四人家族が肩を組んでカメラを見つめている写真などがそれだ。近所のご老人らしき5人のポートレイトは、ポーズするバレリーナがその前にいるのがやや非日常的だが、記念写真のスタイルの一種と言えよう。

冒頭のハイハイする赤ん坊の写真には、具象と抽象の中間のような印象がある。サークルの周囲の草が刈り取られており、その毛足の短い草地の感触がコンクリートの質感や赤ん坊の坊主頭と響き合い、無の状態からなにかが生起しようとしているような、抽象的な時空に誘われる。この写真との比較でおもしろいのは、後半に出てくるふたりの女性がしゃがんで会話している写真である。そのひとりは赤ん坊を抱いており、ふたりから離れたところでは、ちいさな男の子が手にした草をコンクリートの上の浅い水たまりに浸している。3人の人物像から感じ取れるのは、おだやかに過ぎていく日常の具体的な感触なのだ。

養護学校の生徒の記念写真のあとの展開も興味をひく。つぎはサークルの上になにもない写真。だが、丈の伸びた雑草がまわりを覆っている。その対抗ページでは、草が刈り取られて周囲はぺたんこになっており、サークルの上にさまざまなサイズの木切れが散らばっている。何度見てもはっとする光景だ。生徒の像がまぶたに残っているから、その木切れは人の暗喩に見える。作者の鋭く厳しい視線が感じとれる。

もうひとつこれと似た例は、車椅子の老女とその娘と犬が写っている写真である。日常的なスナップに近いものだが、そのつぎのページは暗がりのなかで箱が燃えている写真なのだ。炎とサークル以外にほとんど要素がなく、ぜんたいの印象は黒い。生の燃焼ということを連想せずにはいられない。

日常的なスナップや記念写真は、見る者にある特定の時間と空間を思い起こさせる。写っていることが直接自分に関係がなくても、それに似た記憶を引っぱりだして、あのときはこうだった、ああだったと感慨にふける。記憶を遡るよすがとして、写真ほど威力のあるものはないから、具象的な写真は万人の心をつかむ。

だがその一方でたしかなことは、人は明確な時間と空間の記憶をさぐり遡って生きているだけではないということだ。よく考えれば、空間の境界があいまいになったり、時間が止まったする感覚をたびたび経験している。典型的なのは夢のなかの出来事だ。抽象的で意味不明のことが多いが、夢のなかではその内容を理詰めに問いはしないし、むしろ具象的で辻褄があっていたら違和感を抱くだろう。夢のヴィジョンは、目覚めているあいだに見たり体験したことが奇妙に編集された結果なのだ。

しかもそれは夢を見ているあいだけに起きるとは限らない。どこという当てもなく道を歩いているとき、作業が一段落して一服しているときなどにもそうした体験をすることがある。生きて呼吸しているあいだ、わたしたちは目の前にある現実を追うだけではなく、すでに起きたことの記憶や、それをもとに加工した虚構や、まだ起きていないことのへの想像や妄想などが複雑に錯綜した時空間を行き来しているのだ。

そうした人間の生の実体と、人間と無関係に存在する世界が引き起こすさまざまな現象との関係。それを包括しようとする強い意志。この写真集に流れているのはそれだ。被写体のテーマで区切れば理解は得やすく、またひとつのスタイルで統一すればわかりやすくもなるが、そのどちらでもなく、全体性というより大きなテーマにむかっているところに、写真家・普後均の果敢さがあるのだ。

具象写真と抽象写真をひとつシリーズに融合させることは、ふつうはしない。というより、できない。ひとつはジャンルが別だと考えるからであり、もうひとつはその合体が表現上とてもむずかしいからである。撮影の仕方ももちろんだが、プリントの焼きの調子や、写真の順序などが微妙に関与し、非常に繊細な作業が求められる。

この写真集においてはそれが自然に融合しているが、それはサークルという空間がひとつの紐帯として機能しているからだ。普後には『FLYNG FRYING PAN』というフライパンの表面だけを撮影した写真集がある。その制作過程で円の宇宙を徹底して探求したことが大きいだろうと想像する。写真家が蓄積してきた写真表現への考え方、人間と外界の関係性、生への視点というものが、円形の貯水槽の上でひとつに結びついた。結びつけるために探したのではなく、出会ったことによってそれが連結したのである。

写真は具体的な何かに出会うことによってはじまるものであり、出来事に巻き込まれていく要素が多い。抽象的な写真では出来事をそのまま表現しはしないが、存在するものや、具体的に起きていることに目をむけるところは、具象写真と何ら変わらない。『ON THE CIRCLE』では事を起こしているのは写真家であり、彼の手が撮影の契機を生み出しているが、はじまってしまえば制御しきれないものがそこに加わり、写真家から離れた自立した出来事になっていく。それに敏感に反応するのが写真の行為なのだ。

その意味で、写真の活動は生命活動と重なりあう部分が大きい。写真の外に立って操作するのではなく、写真のなかに入り、撮っている時間を生きることからイメージが生まれ出る。『ON THE CIRCLE』の発している強い生命感は、作者のそのような考えの表明なのだ。


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