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『「明星」50年 601枚の写真』明星編集部編(集英社新書)

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「『明星』の図像から読み解くアイドルと社会の変遷」


「『明星』だけは読むな」

 個人的な体験から始めたい。評者は少年時代(ほぼ1980年代)に、母親からこのように言われて育った。男性週刊誌や少年漫画の性表現や暴力描写の方がはるかに有害だと思われていそうだが、それ以上に芸能文化に対する親の忌避は強かった。
 この場合、「『明星』だけは」というのは、「明星」をあげつらいながら他の雑誌も含めた芸能(特にアイドル)文化全般を指している。それくらい、「明星」は芸能文化の代名詞的存在だったのだ。しかし、妹がそのようなことを言われた場面を見た記憶がない。つまり、「女はいいが、男がアイドルなどにうつつをぬかすな」という、ジェンダーに基づく二重の規範が適用されていたのである。
 評者の経験が必ずしも同世代を代表するものでないことは留意する必要があるにせよ、1980年代、アイドルファンというものは、多くの場合、揶揄を込めた否定的な意味合いで「ミーハー」と呼ばれていたし、「明星」のようなファン雑誌(ファンジン)にもそのようなまなざしが強かったように思う。

 本書は、1952年10月号から2002年10月号までの601枚の表紙をカラーで採録しており、実に壮観である。それは同時に資料的価値の高いものでもある。巻末には表紙登場人物の索引も収録されている。作家の橋本治による解題を追いつつ、これらの図像から浮かび上がるものを考えてみたい。
 なぜ、創刊号が映画スターの津島惠子だったのか。美空ひばり原節子ではなくて、津島なのか。橋本によれば、原や高峰秀子が戦前の記憶をひきずったスターだったのに対して、津島は戦後デビューであったこと、「自分の生き方を探す女性スター」のはしりと位置づけられること、この2点が大きい。そのような津島の生き方が「夢と希望の娯楽雑誌」を謳う「明星」のコンセプトと合致したのである。
 同時代を知らない世代にとって「戦後のスター」といえば、美空や原、笠置シズ子であるが、これらは定番の映像が繰り返し用いられることで、われわれの集合的な記憶として編制されているという側面を少なからず含んでいる。歴史を振り返るテレビ番組で「戦後」が語られる際、必ずモノクロの焦土の映像に「リンゴの唄」が被せられるように。しかし、「明星」が津島を起用したことが物語っているのは、そのような集合的記憶の背後に、いまだ掬い取られていない様々な事象が埋もれているということだろう。

 1950年代=映画スターの時代というように。アイドルの歴史が、その時代に影響力のあるメディアと関連付けて論じられることが多い。本書もそのような構成となっている。
 1950年代には、ほとんど男性が登場しない。男性は鶴田浩二佐田啓二だけである。そのほとんどは、香川京子若尾文子南田洋子山本富士子・・・といったように女性であり、それも歌手ではなく映画女優なのである。

「しかしどういうわけか、その表紙の印象はみな似通っています。赤いバックの中で動きを止めて微笑んでいる女優たち――1950年代の「明星の表紙は聖画(イコン)のようです」」(20ページ)

というように、まさにそれは憧れの対象であった。皆一様に赤い背景の中で白い歯を見せて微笑んでいるのである。当時の技術から、写真ではなく絵画であることも「聖画」であり、遠い憧れの存在であることを際立たせている。

 1960年代には、吉永小百合小柳ルミ子いしだあゆみ西郷輝彦舟木一夫などが登場している。ここで橋本が、『明星』の表紙は世相を反映などしてないと断言しているのが興味深い。評論であれ、社会史研究であれ、安易に図像と世相=社会とを接続しがちであるからだ。60年代後半からは全国に広がった若者による社会への抵抗があったし、グループサウンズといううねりもあったにもかかわらず、ここにはそれらは反映されていない。「明星」にとって焦点だったのは「アイドルが健在かどうか」だけだったのである。

 さて、70年代は写真家、篠山紀信の時代と言っていい。71年9月号から81年9月号までは彼が表紙写真を担当している。それにより、それまでの見合い写真のようなものから、多様なシチュエーションやアイテムによって装飾された写真へと大きく変化している。水着やスキーウェアなどのコスプレ的なものや、凝ったカメラアングルやレイアウトが登場する。メディア論的には、テレビの時代であり、スターという呼称からアイドルへの移行期でもある。なお、この時期は「明星の黄金時代」と位置づけられているが、同時に高度経済成長期という時代を反映してか、スキーやジャンボジェット機、スポーツカーなど、モノの輝き、モノへの欲望が見いだせる。

 1980年代はスターの時代から完全にアイドルの時代へと転換した時代とされる。女性では松田聖子河合奈保子中森明菜伊藤つかさ、男性では、沖田浩之たのきんトリオ、シブがき隊など多数のアイドルが登場するが、50年代や60年代にあったスター性や写真家 の個性は消失し、どの表紙を見ても完全に同質的なものとなっている。田原俊彦の笑顔など、どの写真を見ても表情といい角度といい、ほぼ同じように演出されている。サザンオールスターズラッツ&スター、聖鬼魔Ⅱなど、アイドルとは呼びがたいグループがときおり登場していたのも特徴だった。
 「男だけの明星」と評されているように、1990年代以降 少年アイドル誌へと変貌を遂げた。牧瀬理穂や一色紗英内田有紀広末涼子なども散見されるとはいえ、少年アイドル、それもほぼジャニーズの寡占状態と言っていい。この時期を橋本は「苦闘する明星」と評している。
 だが評者はここで二つの特徴を挙げておきたい。ひとつの特徴は「メイル・ヌードの時代」である。度々、少年アイドルの上半身のヌードが掲載されている。それらヌードは筋肉も体毛もない、まさに少年のものである。96年7月号のタイトルは「ジュニアの素肌にタッチ」であった。これが示唆しているのは、男性の裸を鑑賞するような見方が定着しているということである。男性の裸はかつての「明星」では加山雄三やにしきのあきらにのみ与えられた特権だったのが、広く一般化している。
 もうひとつは、スタジオ空間から出て海や公園、都市空間といった屋外で撮影されることが多くなったということと、ファッションやアイテムへのヒップホップやストリート文化の流入である。『明星』は一貫して「ミーハー」路線であったが、それは決して「ヤンキー」「不良」的ではなかった。しかし、90年代後半から大きな地位を得ることになったストリート文化をいとも簡単に受け入れてしまったのである。しかも、それを薄めて飼いならしてしまっているといえる。

 最後に、本書のような資料から表象と社会との関係を読み解くことはどういうことなのか考えてみたい。これまで見てきたように、いくつかの局面でアイドルや社会の変容が大きな変化を捉えることは可能だろう。だが、橋本が指摘したように、そこには必ずしも社会的現実が反映されているわけではない。また、圧倒的な資料の厚みは、単純な図式化を戒めている。変化したものと変化しないもの、社会やメディアの変容と接続が可能なものと不可能なものを見極める必要があると言えよう。
 アイドルの変容に限定しても、例えば50年代~80年代はアイドルシーンをある程度反映しているといえるが、90年代以降についていえは、アイドル誌やティーンを対象にした雑誌が多数発行され、インターネットによるファンサイトなども存在する。そのなかで、『明星』のみからアイドルの変容を読み解くことはいまや困難である。とすれば、他誌や多メディアとの関係のなかで捉えていく視点が求められている。

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