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『ハゲに悩む――劣等感の社会史』森正人(ちくま新書)

ハゲに悩む――劣等感の社会史 →紀伊國屋ウェブストアで購入

「身体への現代的不安を問う」




 少し前に「ちょいワル」や「カレ専」(枯れた男性専門)、「グレ専」(ロマンスグレー専門)という言葉が登場したように、男性の老いに関して肯定的に描く風潮が見られるようになった。だが、ことに「ハゲ」(「ハゲ」は身体的特徴に対する蔑視を含んだ表現ともいえるが、本書に合わせて使用する。その他の身体的特徴に関する用語も同様)に関しては、それが肯定的に語られることは珍しい。つまり、ハゲは半ば固定化された劣位な身体的特徴といえる。例えば面積で考えた場合、人間の身体の数パーセントでしかない頭髪というゾーンが何故これほどまでに人々の劣等感や自尊心ひいてはアイデンティティがせめぎ合うアリーナとなるのか、という疑問も生じてくるが、本書に沿って考えてみたい。

 著者はハゲの社会史を見る前に、「はじめに」でまず身体に関する劣等感を次のようにとらえる。

「身体のコンプレックスや変化に対する不安感とは、個人的な身体を何かの標準をよりどころにして見直し、その標準から外れることがわかったときに生まれる」(10-11頁)

 つまり、ハゲへ劣等感を特殊で固有のものととらえるのではなく、「チビ」や「デブ」といったほかの身体の劣等感と同根を持つものと考えるのである(ただし、著者はハゲの固有性についても後述している)。 「標準や基準値は最初から存在するものではなく、ある時代のある社会のなかで作り出され、広く共有されている」(11頁)

 そして、このような問題設定から、社会のなかでハゲがどのように位置づけられてきたかをさまざまな資料から跡付けていく。そこから導かれるのは、ハゲへのコンプレックスが「私的な問題」から「公的な問題」となる過程である。そこで著者が主張するのは、頭髪への「不安」の公共化(32-33頁)である。ハゲへのコンプレックスが直接的に公的な問題となるのではなく、その間に「不安」が介在するとするのだ。

 著者は新聞、週刊誌、小説、評論さまざまな書物をもとに、ハゲと性欲、ハゲと知性など「ハゲの語られ方」を記述していく。なかでも総合誌『文藝春秋』とその週刊誌『週刊文春』は何度もハゲの特集を行っている。特集「ハゲもたま楽し」(『週刊文春』1972年11月27日号)では右翼の赤尾敏が回答しているかと思えば、評論家でアナーキスト竹中労も名を連ねるなど、ハゲという関心事の前にはイデオロギーもないという様相が垣間見える。

 これらの社会史的な記述から浮かび上がってくるのは、1970年代、80年代まではハゲを笑い飛ばせる明るさがあったことだ。それが80年代になり、消費社会(文化的・社会的消費の時代)の時代背景のなかで育毛剤やカツラの広告が強烈な勢いで欲望を喚起していく。その後、ハゲが「問題」とされ、改善されるべきものとなる。現在では、「爆笑問題」のCMで知られているように、「AGA」(男性型脱毛症)として治療の対象にもなっているのは周知のとおりだろう。

 評者にとって最も興味深かったのは、第4章「髪は長い友だち――カツラとファッション」でのカツラをめぐる語りや表象への注目だ。内外のカツラの歴史がまず概説されるが、そこでさらに興味深いのはカツラをめぐるジェンダー差だ。女性用のカツラが「ウィッグ」と言い換えられ、さまざまなカツラを着用することでイメージチェンジを図ったり、服に合わせるなど、おしゃれの道具として語られてきたのに対し、男性用のカツラは「姑息なもの」と考えられてきたのである。

 著者はそこまで言及していないが、そこから考えられるのは、ハゲをさらけ出す「潔さ」と「男らしさ」が結び付けられ、ハゲを隠す行為が「男らしくない」ものとされたからだろう(ハゲと「男らしさ」については、須長史生(1999)『ハゲを生きる――外見と男らしさの社会学勁草書房が詳しい)。

 では、なぜ80年代後半以降、カツラ市場が急成長していくのだろうか。「男らしさ」への希求が弱まっていったのだろうか。評者の感想は否である。本書ではカツラのCMの優れた分析がなされている。そこに見られるのは、カツラの「非男らしさ」を中和するレトリックだ。「娘のためにカツラを着ける父親」といった具合に、関係性のなかで逆に「男らしさ」を担保してカツラの着用を促すという戦略なのである。カツラメーカーの「アデランス」という名称が「かぶる」という意味ではなく、フランス語の「つける」に由来するという逸話も、「隠す」ことの「非男らしさ」を薄める戦略を物語っていると言えないだろうか。

 「あとがき」は最も読みごたえがある章だ。不安や劣等感がどうやって発生するのか。著者はただ言説によってのみそれがつくられてきたとしない。それは確かに個人的な問題を公的なものへと広げていったのだが、それにもまして、著者はその中心に身体感覚を置く。言い換えれば「情動(アフェクト)」(身体に対する無意識的な感情)なのだという。確かに、他人のまなざし以上に、例えば、日々ボリュームがなくなっていく、触ったときの感触が変化していくといった感覚にこそ、不安の源泉があるのかもしれない。本書はハゲ論にとどまらず、肥満や老いなど身体がどう変化していくかわからないという現代的な不安を論じるものであることがあらためてわかる。

 評者を含め、「ハゲに悩む」ことからの解放を期待した方には、本書は必ずしもその期待に沿うものではないかもしれないが、「不安社会」と言われる現代社会で、身体的な不安や劣等感の源泉をとらえ直す意味で本書の意義は大きい。


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