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『<三越>をつくったサムライ 日比翁助』林洋海(現代書館)

<三越>をつくったサムライ 日比翁助

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三越ブランディングをつくった久留米武士」

 タイトルに惹かれて本書(『<三越>をつくったサムライ 日比翁助』現代書館、2013年)を手にとったが、「三越ブランディング」を創り上げるのに尽力した久留米武士、日比翁助(1860-1931)について多くのことを教えられた。

 日比翁助が、明治37年(1904)12月17日、「デパートメントストア宣言」を新聞広告で打ち上げたとき、「デパートメントストア」がどんなものかわかっている人はほとんどいなかった。「百貨店」と呼んだのは、大正時代の雑誌『商業界』の主幹、桑谷定逸が初めてだという。しかも、「株式会社三越呉服店」を創業するに当たって、三井家からは人材や資本の提供は受けられず、ほとんどゼロからの出発であった。

 三越呉服店は越後屋呉服店の継承・発展ではないかと思われがちだが、呉服店からデパートメントストアに生まれ変わるにはひとつの飛躍が必要であった。それを、旧久留米藩士の次男で、「国家有為の人たれ」と説いた江崎済の北汭義塾で漢学を、慶應義塾で「士魂商才」を学んだ「サムライ」が成し遂げたというのが興味深い。

 名宣伝部長と呼ばれた浜田四郎は、のちに、翁助の「三越革命」について、「デパートの開祖 日比翁助」(『オール生活』昭和27年4月号)と題する文章の中で次のように述べたという。

「具体的にいえば、三百年の伝統と旧習に凝り固まっていた越後屋呉服店という一大老舗を、根本的にたたき直して、近代的な百貨店組織に改められたことです。・・・・・・

 たとえば、現銀取引掛け値なしという商法は越後屋開店当時からの特色であったが、これを全店総陳列の正札売りに改めたのも日比さん、元禄模様その他の考案で、流行意匠の総元締めを企画したのも日比さん、寄せ切れ・見切り反物大売出し、実用百貨のバーゲンセール、現代名画の陳列会、勧業博覧会とのタイアップ、レジスターの使用、メッセンジャーボーイの活用等々、何から何まで日比さんの仕事は、つまり『先鞭』ということに尽きます。

 それに日本で初めて女子店員を採用したのも、子ども寄宿舎を設けて教育と厚生施設の実現に努めたのも、さらに後年各方面で行われだしたPRを始めたのも、もう四十余年前にちゃんと日比さんが『知恵の大出し』で手をつけていました。」(同書、23-24ページ)

 本書を読むと、ボーナス制度の創設、従業員持ち株制、月二回の休暇の制度化など、翁助のアイデアで実現したものがたくさんあることに気づく。

 ところが、翁助は、下級武士とはいえ、徳川幕府の時代なら士農工商の一番上にいた「サムライ」の心を持っていた。それゆえ、当初、サムライが商売に手を染めるということに抵抗があったらしい。高橋義雄が越後屋改革のためには翁助の辣腕が必要だと中上川彦次郎に懇願して説得しようとしたものの、なかなか「イエス」という返事は返ってこなかった。「わたしは武家の生まれで、侍気質がいまだ抜けきれず、おまけに九州久留米の田舎育ち、商人の才覚もありませんし、婦人相手の呉服商売などとうていできません」と(同書、123ページ)。だが、相手も負けていない。「日比君、福沢先生のことばを忘れたか、われわれが目指す、いまからの商人像は先生から教わった『士魂商才』だ。われわれが日本の新しい商業人と商業ビジネスを創るんだ」と説得を続けた(同書、124ページ)。

 このように翁助が決断に至るまでには時間がかかったし、決断してからも具体的に何をすればよいのかすぐにはわからなかったものの、苦悩の日々が続いたあと、ようやく次のことに気づいた。

「大変なところに気がづいた。というのは、日本のすべての社会は、軍事でも、教育でも、工業でも、すべてのことがみな欧米先進の風に傾いて日進月歩と改良せられていっておるが、ただ日本の小売業ばかりは、この進歩から取り残されて、依然として旧幕の遺風を墨守しているばかりである。

 これは大いに改革しなくてはならん。この茫々たる荒野を開拓することは、己の仕事として実に愉快な仕事であるわいと思うようになった。そしてこの点に目を付けた。

 これはひと奮発してやってみよう、と。こう考えついたところ、さあ、仕事が面白くなった。

 そのうち自分は、この仕事に打ち込んでもよいというくらいまでになった。」(同書、128-129ページ、日比翁助著『商売繁盛の秘訣』大学館からの引用)

 そうと決めてからは、宣伝広告の重視、PR誌の発行、外売り通信係(通販)の新設、新柄研究会、店員への簿記学の導入など、次々に改革を進めていった。もともと、「三越」とは、越後屋時代には最下級の「のれん」であったが、翁助の改革は「三越ブランディング」の力を高めることによって、三越の従業員の意識改革やモラルの向上までも狙った「一石二鳥の策」だったという。

 翁助は、明治39年(1906)4月4日、欧米のデパートに視察に旅立ったが、当初は百貨店はアメリカが最先端を走っていると思っていたようだ。ところが、アメリカのホワイトリーズをみても、陳列は洗練されておらず、書生の商売のような印象を抱いた。だが、イギリスでハロッズを見たとき、まさに自分が理想とするような百貨店だと感激し、何度も足を運んだ。

 当時のハロッズ総帥リチャード・バービッジともやがて意気投合し、バービッジから百貨店のノウハウを丁寧に教えられたという。ときには、こんな細やかな注意までしてくれたらしい。「百貨を完備する順序はよくよく考えねばならぬ。日常身につける小物、ネクタイ、シャツのごときを先にし、徐々として品種をふやすべく、貴金属類などは最後に持ち越すがよい、これは商品の回転率とストックの関係をにらみ合わせて考慮すべきで、そうすれば売上高が増すだろう。品物がきれいだなというて、無意味に品種を増やすのは危険である」と(同書、176ページ)。

 翁助の努力は、やがて「今日は帝劇、明日は三越」という名コピーに結実していくが、著者がいうように、デパートメントストアなるものがなかった日本にひとつの「ビジネスモデル」を構築した功績は大きいだろう。

 だが、おそらくは長年の過労とストレスの蓄積によって、翁助は50歳を前にした頃から「神経衰弱」(当時の病名で今は使われない。翁助の場合は、頭痛から始まったが、症状をみると、働き過ぎによる抑鬱状態だったと思われる)を患い、亡くなるまでこの病気との闘いが続いた。まさに「企業戦士」であったと言えよう(ただし、この言葉を「美談」のように語る傾向には同調しがたいが)。

 革新者(イノベーター)は一時代を創り上げるが、成功のあとには新しい革新者による挑戦が待ち受けている。本書がそこまで筆を伸ばしていないのは残念だが、翁助が越後屋の伝統にしがみつくのではなくビジネスモデルを革新することによって全く新しい三越を創り上げたように、これからは時代の変化に機敏に適応した新しいビジネスモデルを創出することが求められているに違いない。翁助の足跡を辿った本書を読んで、その感を深くした。

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