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『ハルーンとお話の海』サルマン・ラシュディ(国書刊行会)

ハルーンとお話の海

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「物語る力を解放せよ!」

 今回取り上げる選手はインド代表の『ハルーンとお話の海』。著者は二十世紀を騒がせた本として有名な『悪魔の詩』を書いたサルマン・ラシュディである。外国文学を多少なりとも好きな人は知っていると思うが、『悪魔の詩』の内容をめぐって、ホメイニ師から死刑判決を下され、パキスタンだけでも六人の死者を出し、日本でも翻訳者が殺されてしまう等の国際的な事件を巻き起こした作家だ。もしかしたら“『悪魔の詩』の作者”という印象が先行し、名前は知っていてもなかなか著作を読んだ事がある人は少ないかもしれない。確かに『悪魔の詩』や『恥』はイスラム社会を強烈に風刺した作品とも読めるが、それはほんの一面にしか過ぎず、彼の書く小説の最大の特長はその作品の持つ「物語性」だと言っても良い。『恥』や代表作でもある『真夜中の子供たち』は特にそれが顕著に出ている(但し両作品とも既に絶版本であり、古書店でもなかなか見かけることが無いため、見つけたら買っておく事をお勧めする)。

 そしてその「物語性」を前面に強く押し出した作品が、この『ハルーンとお話の海』だ。王国一の語り部である父カーリファが、ある日突然その力を失ってしまう。ハルーンはお話の力を司る「オハナシー」の月へ、水の精モシモと旅立つ。一方オハナシーではシタキリ団の教祖イッカンノオワリが闇の世界を支配し、「お話の海」を死滅させようと企んでいた。

 これはあらすじであり、読めば分かるとおり内容は完全にファンタジーである。詳しくは書かないが、多くの変な生きものが登場したり、ふしぎな話が挟み込まれたり、アクションがあったりと、いわゆる「ファンタジー小説」と括られる小説群に属するような出来事が満載の、読んでいて楽しい小説だ。もちろんこの小説は深く考えず、ただただ楽しく読んでも構わない。子供に読み聞かせるもよし、家で一人、童心に戻って読み耽るもよし、自由に楽しんで欲しい。

 だが、せっかくならここでふと立ち止まって考えてもらいたい。カーリファはラシュディのことなのではないかと。『悪魔の詩』等の作品により「物語る」事を禁止されたラシュディはまさにカーリファ同様だ。言葉がどれほど偉大なものなのか、「物語れる」ことがどれほど素晴らしいことなのか。ファンタジーという仮面の裏に隠された顔は、書く事を批判されようとも死刑判決をされようとも、それでも「物語る」意義を問う為に闘い続ける作家の顔と映る。

 先述したように、日本ではラシュディの著作はほとんど絶版になってしまっている。言葉の力を大事にする彼の想いを考えると、これはとても悲しいことである。

紀伊國屋書店ピクウィック・クラブ 木村洋志)

■ワールド文学カップ参戦中!

  『ハルーンとお話の海』と合わせて読みたい本■

・エンデ『モモ』岩波少年文庫

ラシュディが「言葉」なら、こっちは「時間」をテーマにしたファンタジー。

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