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『昭和30年代スケッチブック-失われた風景を求めて』文:奥成 達 絵:ながた はるみ (いそっぷ社)

昭和30年代スケッチブック—失われた風景を求めて

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なつかしく、なりたい

詩人でエッセイストの奥成達と、イラストレーターのながたはるみによるなつかし図鑑シリーズの、7冊目である。これまでの6冊、『昭和こども食べもの図鑑—卓袱台を囲んで食べた家族の味、その思い出の味覚たち』 『駄菓子屋図鑑』(文庫版) 『昭和こども図鑑—20年代、30年代、40年代の昭和こども誌』『なつかしの小学校図鑑』『駄菓子屋図鑑』『遊び図鑑—いつでも どこでも だれとでも』に比べると、昭和17年生まれの著者が体験したその世代特有の思い出に加えて、兄弟で雑誌を作ったり雑誌に詩を投稿したりジャズやダンスに出会っていたころの個人的な思い出が(ほんのちょっと)語られているのが特徴的だ。6歳上の長兄が手に入れたプレーヤーのこと、数寄屋橋のハンターで中学生ながら自分も小遣いを出してジャズのLPを買い集めていたこと、新宿の「エッセン」「石の家」「アカシヤ」「ビフテキあづま」「つるかめ食堂」「米田屋食堂」、「きーよ」の2階からの眺め、「ピットイン」のティールームの階段、「汀」の地下で聞いた諏訪優白石かずこ吉増剛造らの詩の朗読、渋谷の「オスカー」、「デュエット」、そして昭和36年1月、詩人の北園克衛に会うために出かけた「風月堂」、そこで出会った清水俊彦のこと……。

 1961年、18歳。それにしても浪人生のくせによくぞまあ遊びまわっていたものだ。

「たくさんの文学作品を読んでいるときに、特別にノスタルジックな数行と出会い、無性に懐かしさがこみあげ」た作品からの引用が、たくさんある。「なつかしさ」は年代によるものに限らず、それは昭和30年代には生まれていない私にとっても同じことだ。引用されたなかから言えば、串田孫一が『文房具52話』の「消ゴム」に書いた「まだ十分に使えるのに、なんとなく姿を消してしまう。……消ゴムの老衰して行った本当の最後を見届けるのは、実に困難である」や、長野まゆみが「とっかえっこ」のことを『玩具草子』に書いた「暗黙の相場ができあがっており、色や柄によって交換レートは異なった。各々なかなかの商売人で、お気に入りを見せびらかしておいてそれは出し惜しみ、ちょっと格落ちのものを抱き合わせていい条件で交換する、なんて高度な取引も行われた」などには、まず大きくうなずいたうえで、こちらもひとこともの申したくなる。

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都筑道夫が『東京夢幻図絵』のあとがきに書いた「庶民の歴史の上で、どんな些細なことでも——たとえ夜店で売っていたくだらない玩具のことでも、わからなくなっていい、というものはないはずだから」を引用して、それが都筑さんの素敵なところであるとも記している。それはまた奥成達×ながたはるみによるなつかし図鑑シリーズの魅力にもそのまま重なる。各章の扉は、ながたはるみさんによる路地裏、床屋、海水浴場など様々なシーンの点描画で飾られいて、これがまたいい。きゅんとこみあげるような「なつかしさ」は、自分自身に同じ記憶があるということよりも、先人の記憶であろうといかにそれが反復されて心に留めてあるかということのように思う。畳の部屋に蚊帳を吊った絵などは、画面に子供達は描かれていないけれど、どんなにかはしゃいで疲れて眠っていることだろうと思うだけできゅんとなる。日めくりカレンダーは8月25日、壁には先っぽがやわらかくカーブした柄の長い箒とはたき——。

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初めて江戸時代なるものを知ったときはどんなにか大昔のことと思ったし、太平洋戦争も自分には関係のないことに思えた。それが年々、どんどん身近になってくる。江戸も明治もましてや昭和30年代なんて、最近のことである。いっぽうで、自分ひとりの記憶というものが、だんだん遠く感じることがある。「なつかしい」って、何だろう。そういえば姪が幼いころ、私が姉と昔話をしていたときに「ナオも早くなつかしくなりたい!」と突然叫んで驚いたことがあった。母親と叔母が目の前で「なつかしい」を連発して、よほど楽しそうに話をしていたのだろう。入り込めない寂しさや悔しさで、いっぱいになったのだろう。むろん「なつかしさ」は、そんな屈託のないものばかりではない。でも確かに覚え置きたいと、それぞれに頭の中で繰り返し反復する風景への想いを確認するかのように口にするのが「なつかしい」という言葉のような気がする。

ノスタルジーの共感というのが、必ずしも年代、世代だけのことではないのに、あらためて気づかされた。ここには紹介していないが、俳句や短歌、詩は、ほとんどその共感をいまに伝えつづけている貴重なメッセージの歴史でもある。(「あとがき」より)

日頃の"些末"な事物の丹念な記録が、ノスタルジーの共感を触発することはよくわかる。そして俳句や短歌や詩も、別のアプローチでそれを伝えてきたのである。両方のフレを知る奥成さんにこそ、これからもっともっとそれをひもといて話していただきたいと思う。

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著者が昭和30年代に残した詩や文章についてはこちらこちらをご覧ください。数年前、奥成家引越しを機に蔵書を大処分しようとしていた時に、関連蔵書に限り譲ってくださいと申し出、以降私が個人的に整理掲載を続けているのが奥成達資料室です。

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