『思索日記. 1(1950-1953) 』ハンナ・アーレント(法政大学出版局)
「アレントとともに考える」
よく無人島に一冊の本だけ持っていくとした何にするかという問いが冗談のように問われる。「あなたの心が何を食べているか、いってごらんさない、あなたがどんな人か、説明してあげましょう」というわけだ。すると人々は自分がもっとも時間をつぶせそうな一冊をいろいろと考える。そして多くの場合は、答えに窮するものだ。
ところがアレントなら、何の迷いもなかっただろう--わたしの『思索日記』です。これは1950年から1973年まで、すなわちアレントの思想の円熟期において、一年も欠けることなく、アレントが考えつづいていた事柄、その問題を提起した基本的なテクストの引用などを書き記したものなのだ。
これはたんなる備忘録のようなものではない。ストア派の人々は、重要な思想を書き記したノート(ヒュポムネーマタ)を手元においておいて、それを何度も読み直し、書かれたことを想起し、それによって自分の生活を律するようにしていた。アレントの日記も同じような意味をもっていたかもしれないが、それは何よりも、手元にテクストがないときにも、そのときのもっとも重要な関心事について、思索を続けられるようにすることを目的としたものだった。
実際にアレントは、テクストを参照することのできない旅先には、このノートを持参し、思索がとぎれることがないようにしていたし、旅先でも書き込みはつづけられた。フライブルクのハイデガーのもとにこのノートを持参して、ハイデガーに書き入れてもらったりもしている。この書き込みがあれば、アレントはハイデガーとともに考えることができるのだ。
ハイデガーが書いたのは次のところだ。「七一年四月二二日 フライブルクにて ハイデガー。断念すること(Ent-sagen)」。そのあとにおそらくアレントが上向きと下向きの矢印を書き入れ、「言うこと、存在について。断念することは、言うべきことを存在から取り去って、断念する。すなわち言うべきことを引き戻す」と書き記している(第二巻、四四七ページ)。
ついでながら、ハイデガーとの交際を復活させたアレントは、ハイデガーの思想から影響をうけるとともに、ハイデガーにも影響を及ぼしたのではないかとみられる。この二人の思想の相互的な影響関係は、考察の困難なテーマだが、やりがいのあるものだろう。
アレントがこの『思索日記』を書こうと決意し、独立した遺稿として書物の形にすることまでを考え始めたのは、『全体主義の起源』を書き終えた後のことであり、プラトン以来の西洋の哲学のうちに、ファシズムとスタリーニズムを生み出す根本的なゆがみがあったのではないかという深刻な問いをみずからに問いかけ始めた頃のことである。
これはアレントがマルクスの哲学と対峙し始めていた時期であるが、マルクスの直接的な言及は最初の数年に限られ、ノートはプラトンとカントの引用が中心になっていく。多くの場合ギリシア語で引用しながら、アレントはプラトンのテクストとじっくりと対話し、そこから引き出した結論を書き記していく。
この結論はやがてアレントの書物などで最終的な形を取り始めるが、アレントがこうした思想をどのような状況と文脈のもとで考えていたかを示すのは、この『思索日記』であり、この日記を読むことで読者はいわばアレントとともに古典を読み、アレントとともに考えることができるのである。
一つだけ実例を引用しておこう。アレントはヘーゲルの『精神現象学』にふれて、「ヘーゲルで初めて、キリスト教が要求していたことが(?)、他の人々を抑圧する者は自由ではありえないことが--主人と奴隷の弁証法において--「証明」される。これは自由概念の革命的転回である。それによって政治一般が初めて可能になる」(第一巻、三六二ページ)。実に鋭い考察ではないか。
また、一九五〇年頃、マルクスを読みつづけていたころの日記をみても、晩年の日記をみても、『アウグスティヌスの愛の概念』を書いた頃のモチーフがいかに生き生きとアレントのうちで息づいているかがよく理解できる。愛、赦し、責任、複数性などのテーマは、アレントから離れることがなかったのである。
ぼくはこの書物の刊行が発表された時点でドイツの書店に予約をいれておいた。長らく待たされた後に、箱入りで黒の布のシックな装丁の二冊本がとどいたときは、とてもうれしかったものだ。翻訳権を取得しようかと思ったが、ぶあつさと引用の多さに引いてしまった。出版から数年で、この大部な著作を翻訳刊行された訳者に敬意を表する。
【書誌情報】
■思索日記. 1(1950-1953)
■ハンナ・アーレント[著]
■ウルズラ・ルッツ,インゲボルク・ノルトマン編
■青木隆嘉訳
■2006.3
■570p ; 20cm
■ISBN 4588008412
■定価 6200円