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『お江戸超低山さんぽ』中村みつを(書肆侃侃房)

お江戸超低山さんぽ →紀伊國屋書店で購入

都心で山登りなんてまさかと思う。

著者の中村みつをさんは子供のころから野山に遊び、中学で東京・奥多摩の川苔山、高校で谷川岳、そしてヒマラヤ、アルプス、パタゴニアにも脚を伸ばすホンモノの登山家だ。なのに都心で「山」と付く地名や名所を探しては、山と言うにはしのびない低い山、低い山と言うにもしのびない超低山の"登山"にもいそしみ、江戸時代の地図をひもとき浮世絵を重ね見ながら、その眺望を楽しむ。
この本で取り上げられたのは、愛宕山(標高26m。以下表記同)、摺鉢山(24.5)、富士見坂(22)、待乳山(9.5)、飛鳥山(24.4)、藤代峠(35)、箱根山(44.6)、千駄ヶ谷富士(7)、品川富士(6)、池田山(29)、西郷山(36)の山々。地図で見ればどこもなじみの場所、実際にわたしも"頂上"を制覇したところがいくつかある。どこも高台だし、なにしろわざわざ○○山と名乗っているにもかかわらず、土地の凹凸を嫌う私たちの文明は、"山"を忘れよう忘れようとさせるらしい。

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中村さんは冒頭で、鍬形蕙斎が文化6年(1809)に描いた「江戸一目図屏風」にふれている。江戸城を中心に武家屋敷、町家、川、海、そしていくつもの超低山と奥に巨大な富士山が描かれ、「ピクニック好きだった江戸庶民の楽し気な様子が目に浮かび、思わずうっとりする」と言う。「うっとり」を真似たくなって、この屏風を所蔵している津山市のウェブサイトで写真を見てみる。起伏の少ない広大な土地にできた新しい都市で、ひとびとはわずかな凸を目指してあっちをうろうろ、こっちへぶらぶら、どんなにか脚で楽しんだことだろう。
それから200年、表面をむき出しにした土地はほとんどなくなったけれど、それでも地名に「山」の字を残したり、わずかな標高をそのままにしている場所はけっこうあって、そのことがうれしいと中村さんは言う。たしかにそうだ。超低山はお江戸のひとびとのピクニックの名残り、そうなのだ。

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江戸時代にその"山"はどう楽しまれたのか、そして今はどう楽しめるのか。現在の地図や写真と、浮世絵や写真に残された風景や眺望をうつした図を添えて、中村さんがひと山ひと山、案内をする。なかで見開きに描かれた山の全体図が、とくにいい。どれもやわらかいタッチなのだが、山や草木、建造物などのシルエットを描く線がゆるぎなくて、気持ちのいい緊張感がある。どれだけ地図を読み脚を運んで、どれだけ見つめたことだろう。超低山のなかには、庭園にある山、つまり人工的に作られたものもとりあげられていて、最も低い品川富士でさえ、雨風によって研ぎすまされた稜線と山肌が、ゆるぎない線で描かれていると感じられる。きっと砂浜で子供たちが作る砂山も、中村さんの手にかかったらゆるぎない線で描かれるんじゃないか。高低にかかわらず、なにかか積み重なってある安定を得たカタチというのは、たしかにゆるぎない一線で縁どられている。中村さんにはそれが見えているのだと思った。
折しも開かれていた中村さんの作品展『山のひとりごと』に足を運ぶ。どんなに険しい山々も、同じようにやわらかなタッチで描かれていたが、稜線をあらわす線のゆるぎなさはそれここに極まれりといった厳しさに満ちていた。どんなにか見とれ見惚れ見尽くしているに違いなく、これ以外あり得ない一本の線が、ひとにうつくしさを感じさせるのだろう。

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一度だけ、あれはわたしの"お江戸超低山さんぽ"だったのかな、と思えるような散歩をしたことがある。端唄「海晏寺」に唄われた情景を知りたくて、京浜急行青物横丁駅の近くにある海晏寺をたずねた時だ。広重の「東都名所」に見ると、紅葉美しいこの寺の裏の高台からは海が眺められたのでのぼってみた。今や沖は遠のいて、私鉄の高架線とビルに視界を遮られるばかりだが、アレ見やしゃんせ海晏寺/ままよ龍田が高尾でも/およびないぞえ紅葉狩り〜と口ずさむうちに、穏やかな海に紅葉の色が照り返り、紅色が静かな波となってうち寄せてくるように感じられたのだった。高台を下り、第一京浜を渡って京浜急行の高架をくぐり、旧東海道に出る。鯨塚、品川浦の舟だまり。3駅分歩いて、品川駅に出た。楽しかった。

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1809年に鍬形蕙斎は、「江戸一目図屏風」を描いた。2007年に中村みつをさんはこの本で、「平成のお江戸超低山さんぽ図絵」を描いた。200年後の誰かがこの本を見つけたら、きっとうらやむことだろう、平成の東京では超低山さんぽってやつを楽しんでいたらしいよと。
ブックデザインは柳本あかねさん。なお中村さんのおじいさんは、東洋文庫で製本の仕事をしていたそうである。藤代峠を目指して駒込界隈を歩いていたときに東洋文庫に寄り道してトートバックを買ったくだりで、そんな話も読めます。

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