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『眼と風の記憶 写真をめぐるエセー』鬼海弘雄(岩波書店)

眼と風の記憶 写真をめぐるエセー

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「思い返すことを怖れない」

撮影で何度も訪ねているインドやトルコの小さな町や村の風景に、写真家の鬼海弘雄さんはふる里の暮らしを重ね見る。山形県のほぼ真ん中、昭和2、30年代の醍醐村(現・寒河江市)には、暮らすために必要なものを身近で揃える、忙しいけれども当たり前の時間が流れていた。農家に生まれ育った鬼海さんは、ふる里を離れて長い時間が過ぎ、写真家として大きな賞を受け国内外で個展も開かれる忙しい日々である。それでも毎日いつものように朝を迎えて、夏には自宅ベランダのゴーヤーやトマトの不出来に「農家の倅なのに情けない」と嘆くのだった。

本書は、2006年4月から6年のあいだに山形新聞で連載していたエッセーをまとめたものだ。〈懐古はものを美しく飾ることも承知〉しながら、でも〈誰でもが、固有の手触りのある懐かしさで、未来に等身大の「しあわせ」を見定める「ものさし」になるのかもしれない〉と、〈ノスタルジーとの距離のとりかた〉に惑いながらも怖れず記憶を反芻している。思い出す回数が多いほど、それらはそのひとの心のうちを占めてゆくだろう。そのひとが向かうほんの少し前にある靄を払って、鬼海さんもいつしか〈手持ちの羅針盤〉を得ていたのだった。


いつも季節の歩みは、何度か踊り場を通っては階段をのぼったりおりたりする。子ども時代の思い出は、それらの季節の堆積した層に押し花のように挟まれている。


それにしても、生まれ育った場所のことをこんなにたくさん思い出せるものなのだろうか。鬼海さんのふる里とは寒河江川をはさんだ対岸におよそ20年後に生まれ18年を過ごした私が思い出せるのは、ほんのわずかだ。見過ごしたものの大きさに愕然とする。しかしあるいは繰り返し思い出すうちに姿を現してくるものなのかもしれない。言いあらわす言葉が体に入った次の瞬間に、それまでもやもやしていたものが「記憶」に昇格するのかもしれない。そんな風にも思えてくる。だから何度でも遠慮なく思い返す。他の誰も知ることのできない1人分の時間を反芻してみる。


インドやトルコの今が、鬼海さんのからだに醸成された記憶によって少し前の醍醐村に重なりエッセーとして記録されたように、1人ずつの確かな記憶が、出会うはずのない場所をつなげていけたらいい。本書の表紙で布にくるまりこちらを見つめている幼い子どもは、もはやすぐ隣りで微笑んでいる。

     ※

1編に1枚ずつの写真が添えられている。文章を仕上げたあとで膨大な数の写真の中から1枚を選ぶ作業は、さぞかし楽しそうだ。鬼海さんの写真の魅力は添えられたキャプションにもある。このたびのエッセーはいつものキャプションがだいぶ長くなったバージョンと考えてみると、話題に重なる写真であることが多いけれどそうでもないように思えるものもあって、これがまた楽しい。


「カレーライスとライスカレー」とタイトルされた1編には、鬼海さん流のカレーレシピがある。添えられた写真はインドの2人の巡礼者で、向かい合ってしゃがみ込んで頭髪を剃っていたようだった。背後に川、2艘の舟が画面の両脇に留めてある。写真家が何か声をかけたのだろう。剃っている男は顔をあげてカメラをにらむ、剃られている男は頭をおさえられているのでうなだれたまま。……。カレーライスとライスカレー。それが何か?と聞かれたら困るのだけれど、読むたびに声を出して笑ってしまう。


「泳がない鯉のぼり」には、トルコの街角で門につながれこちらを見るロバの写真が添えてある。エッセーは、ある年の端午の節句、幼なじみと隣町に笹の葉を売りに行ったがひるんであえなく撃沈、砂利道を自転車で帰り、田んぼ道でやすんだエピソードである。写真には「誰何する驢馬 トルコ」と添えてある。少年たちの得意と意気揚々と緊張とまたたくまのしょんぼりがたまらなく愛おしい。もっとも好きな1編だ。

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