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『The Little Stranger』Sarah Waters(Virago/Little Brown)

The Little Stranger

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「Unputdownable ― 怖いけれどやめられない」

創元推理文庫から邦訳がこれまで3点出ている気鋭女流の新作。エンターテイメント性の強い推理小説の本流というより、登場人物の心理を巧みに紡ぎながら緊張を高めていくそのスタイルは、しばしばヘンリー・ジェームスに譬えられる。新作ではゴースト・ストーリーの体裁で、ポーを思わせる得体の知れない作品世界を作り出した。期待を裏切らない快作である。

第二次世界大戦後間もない英国ウォリックシャー地方。広大な、しかし手入れが行き届かず荒廃が目につく領地の真ん中に、エアーズ家の邸宅ハンドレッズ・ホールはあった。語り手はドクター・ファラデー。貧しい階級から苦学の末医師になった彼は、幼い頃に垣間見たジョージアン様式のこの美しい屋敷と、そこに暮らす一族の華麗な生活ぶりを追憶し、憧れと妬みが交錯する特異な感情を抱く。

物語は、そのファラデー医師がとある偶然で現在のハンドレッズを訪れることから始まる。歳月を経たエアーズ家の落ちぶれ様は、ファラデーの想像を超えるものであった。英陸軍大佐だった先代はずいぶん以前に他界し、初老の未亡人と24歳の傷痍退役軍人の弟、27歳になっても未婚の姉、それにかつて多くいた使用人を家計逼迫のために次々と失った末、辛うじて雇い入れた年若い女中との4人が、この数え切れないくらい多くの(ハンドレッズ)部屋を持つ館で、色褪せて活気に乏しい生活を送っている。

人気がなく薄気味悪い大屋敷が嫌で、仮病を使ってわざと解雇されようと企む女中ベティを往診したファラデーは、やがて長女キャロラインとエアーズ夫人の話し相手となる。困窮の中で家運を立て直そうと苦悶する弟ロデリックの癒えない戦傷を少しでも楽にすべく、無報酬で治療を申し出る。エアーズの三人は少しずつ打ち解け、やがて彼はハンドレッズに足繁く出入りする家庭医兼友人となる。すると一つ、また一つと不可思議な事件が・・・。突然魔が差したかのようにゲストの少女を襲い大けがをさせる忠犬。ロデリックの部屋で天井に現れては消える奇怪な滲み。放置された部屋の片隅に、今まで誰も気づかなかった落書きの引っ掻き疵が浮かび上がる。使われなくなって久しい使用人呼出し用の管状通話機から、押し殺した声のように漏れ出す不気味な破擦音。

恐怖が妄想を誘引し、妄想が狂気へと進む。淡々としたファラデーの語り口で物語はゆっくりと進みつつ、着実に密度と速度を増し、抗いようのない、圧するような何かが一点に向かって迫り、読者の心拍数を押し上げていく。そして最後に我々が至るのは、調和へ解決することを拒んだ音塊が砕け散ったかのような、名状しがたい違和感である。ある人はそれを恐怖と言うかもしれないし、嘔吐感と言うかもしれない。収斂ではなく、瓦解する意識。読後しばらくの間、どのようにそこへ至ったのか繰り返し考えざるを得ない気持ちにさせられるのだ。

前半では家屋に宿る霊をモチーフにした怪談と見せて、徐々に「小さなよそ者」の正体が浮かび上がる過程が、鋭角のサスペンスに切り傷のような戦慄を加える。

一方この作品は、戦後の社会変革期にあって、特権階級と庶民階級とが新しい社会のダイナミクスに戸惑い、気まずく、ぎこちない関係を生きる姿を浮彫りにする。落ちぶれても気高さをうち捨てることが出来ないものと、底辺から這い上がり、上流社会への仲間入りを達したと錯覚し、その蹉跌に苛立つもの。二つのベクトルが奇怪な地方領主館を舞台に対峙し、結合し、砕け散る。立ちのぼり旋回する気と不協和音がフェイド・アウトするまで、本書を閉じることがなかなかできなかった。

和声の明快な解決に倦み、輪郭をぼかした和声とリズムで構成する音楽を構想したドビュッシーは、ポーの『アッシャー家の崩壊』を絶賛し、乱心の若き当主ロデリック・アッシャー奇譚のオペラ化を目論んだ。執着はやがて強迫観念的な妄想へ発展、夥しい推敲はアイディアの衝突となり音楽的に瓦解し、前衛の歌劇は遂に完成を見ることがなかった。

ポー生誕200周年にあたる今年、サラ・ウォーターズはこの作品で心理サスペンスの新境地を開いたと言えそうだ。当稿を準備する時点で2009年ブッカ―賞最終候補6作品に名を連ね、 Hilary Mantel の Wolf Hall と並んで受賞最有力候補と見られている。既に「文学豊作の年」と称えられる今年の英出版界にあって、ひときわ注目を集める本書の評価とともに、売れ行きの方も大いに気になるところである。

シンガポールエリア 十河宏)


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