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『水になった村』大西暢夫(情報センター出版局)

水になった村

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「水が村を沈めた、でも流れはいまもそこに」

 計画が発表されたのは1957年だそうだ。それから半世紀以上を経て、2008年、揖斐川水源域に置かれた徳山ダムは完成した。面積でいえば諏訪湖に等しく、浜名湖2つ分の水量をもつダム湖を、161メートルの堤高が作り上げた。日本列島にはもう、こんなに巨大なダムを作る余地はほかに残されていない。

 列島の自然を激変させた巨大技術の筆頭ともいえるダムは、8つの集落に分かれた徳山村を完全に水没させ、それとともに土地のフローラ(植物相)とファウナ(動物相)のすべてをいったん殺し、いまはただしずかな広い湖面となって、雲や夜、花や月を映している。下開田(しもかいでん)、上開田(かみかいでん)、本郷(ほんごう)、山手(やまて)、櫨原(はぜはら)、塚(つか)、戸入(とにゅう)、門入(もんにゅう)の8つの集落は、すべて無くなった。

 縄文時代、おそらく2万3000年前から、ずっと人が住みつづけてきたと考えられる地点だ。縄文期の列島の交易圏についてはよく知らないが、飛騨の山奥のここからも、現在の東京都神津島や九州の焼き物などまで出土するというのだから驚く。

 現代的・近代的・近世的・中世的な「日本」の交通網のイメージよりもずっと古い、古代的ネットワークの時代から、絶えることなく人が住み、生活が営まれてきた場所。そこでのライフスタイルは、農業の成果を狩猟採集がおぎない、商品の世界からは遠くても山川の富に日々みたされて生きるというものだったろう。

 おそらく基本的には過去数百年、さして変わっていない四季それぞれの生き方のサイクルが、しかし村そのもの、土地そのものがすっかり水没させられることで、最終的な終わりを告げた。いったいなんということなのかと思う。植物や動物に関して数百年数千年をかけて貯えられてきたローカルな知識の伝承がここで終止符を打たれ、ヒトが覚えているかぎりの時間のスパンの中で初めて、この土地にはもはや人が住めなくなったのだ。住めない、という状態を、ヒト自身が作り出してしまったのだ。

 本書は若き写真家によるノンフィクション。著者の大西さんは、いまはすっかり水没した徳山村に通いつづけ、村の最後の15年の生活を見届け、撮影してきた。考えてもみよう、2万3000年の最後の15年だ。道がなかろうが電気がなかろうが意に介することなく、ただ昔ながらの生活を力強くつづける人々の多くが、大正生まれのお年寄りで、大西さんの祖父母といっていい年齢層の人たちだった。山村での生活技術のベテランたちであり、周囲のあらゆる生命や事物に対する知識・感知・叡智を保っている。

 そんなおばあさんたち、おじいさんたちのかたわらで、著者は目と耳をとぎすまし、後について歩き、話を聞き、写真を撮った。写真がすばらしい。文章も、読ませる。ぐんぐん引きこまれて読み終えるころには、なんともいいがたい動揺を、読者の全員が強いられることになるだろう。彼は村とともに、村の老人たちの多くの、生涯の最後の15年を見たのだ。粛然とする。

 この列島の暮らしは、もともとどんなものだったのか。異常な都市化の亢進とともに、それがどんな風に壊され失われ忘れられてゆくのか。商品の森や電力の大量消費に囲まれて生きている自分たちのこの暮らしぶりは、いったい何なのか。ほんの半世紀ほどのあいだに、どれだけの生活の技をわれわれは捨ててきたのか。こんなによろこんで無知になっていいのか。植物にも動物たちにも、山々や水の流れにも、こんなにもどんどん別れを告げていいのか。恐ろしい不安感がこみあげてくる。

 大西さんの目と、耳と、体まるごとの体験が残してくれたこの記録を通じて、徳山村を現実には知らないぼくも、その村のようすを少しだけ想像できるようになった。本書の中心をなすのは、やはり水の情景だ。

 ヘリコプターで徳山村を上空から撮影したときの感慨。

「上から見る徳山から、川を中心に人が暮らしてきたのがよくわかる。大きく蛇行し、広くなった大地に人がへばりつくように集落が点在する。人は寄り添って暮らしてきたことが上からよく見えた。大きな山の固まりから流れ出る水が、人間でいう血管のように見えた。そこを流れる水はなんて美しいんだ。/僕はこの風景を見てとても悲しくなった。なぜ、この流れを止めなければならないのか」(233ページ)

 今年が最後かも、と思いながら、人がいなくなった雪の徳山をたずねたときの感慨。

「冬の徳山ではすれ違う人もいない。雪で音が吸収され、妙な静けさになる。ここでゆっくり見たり考えたりするとっておきの季節なのだ。/戸入の川は美しかった。けがれもない。山が作り出した水がこうこうと下流に流れ落ちる。ここに戸入の集落があり暮らしがあった。何百年前から何千年前から人がここで暮らしていたはずなのに、今は僕しかいない。人は変な時代を作ってしまったもんだ。人だけがこの環境の中でルールに反した行動をとっているようだった」(279ページ)

 そして最後に、ダム湖ができてから大西さんが小西庄司さんに聞いた、次の驚くべき話。仕事でダム湖をボートで移動しているときボートのエンジンが壊れ、みんなで懸命に手で漕ぐのだが、どうにも流されてしまうのだという。「湖になってまって、波もほとんどないのに、なんで流されてまうんやろって、不思議に思とった。/その流れに逆らえんほどきついんや。いつもエンジンがかかっとるで気づきもしんかったが、結局、水機構の船着き場についてまってな。これはしかられるって思ったんやが、後で気づいたんや。その流れはな、徳山の中心を流れとった揖斐川の流れに沿ったもんやったんや」(366ページ)

 味読すべき好著だと思う。そしてそれは、徳山村のすべてが失われた後でこの本が茫然と立ちつくしているその位置が、現代の都市文明を生きるわれわれすべてがあらかじめ巻き込まれている何か、ヒトがみずから用意している「終わり」のある側面に、光をあてているからだ。

 著者にとって特別な存在だった、徳山村の写真を撮りつづけたカメラばあちゃん、増山たづ子さんの写真展「遺されたネガから」が、おりしも新宿のコニカミノルタプラザで開催されるようだ(2008年12月2日から9日まで)。ぜひ、見にゆこうと思っている。


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