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『スナ-ク狩り』ルイス・キャロル[作] 高橋康也[訳] 河合祥一郎[編] (新書館)

スナ-ク狩り

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虚無の大海もトリヴィア泉の一滴に発す

マーティン・ガードナーのファンである。1914年生まれというから、少し頑張ってもらえばめでたい百歳も夢でない。アメリカ版・竹内均先生と大学生に紹介しても、肝心の竹内氏が科学雑誌『ニュートン』他を宰領したポピュラーサイエンティストの大物だったことさえ知らない時代だから、ガードナーの偉さはなかなかわかってもらえない。『自然界における左と右』(紀伊國屋書店)で、DNAやアンチマターの説明を、ごく卑近のたとえ話を駆使して巧みにやる啓蒙科学の名手。それもそのはず、最先端科学を一般読者に紹介する名雑誌『サイエンティフィック・アメリカン』誌の伝説的編集長だった。繰りだす話柄に事欠くはずもない。整数論幾何学にみられるパラドックス現象のコレクションや解説が『ガードナーの数学サーカス』、同『数学カーニバル』で余りに見事なものだから、数学の万年落第生の身も顧みず、訳しながら大いに勉強させてもらったりした。

一般的には、1960年代キャロル・ブームに先鞭をつけた『詳注アリス』"The Annotated Alice : Alice's Adventures in Wonderland and through the Looking Glass" の編注者として余りにも有名。やはり理系の注が異色で、『鏡の国のアリス』冒頭の鏡像をめぐる長い注は『自然界における左と右』を凝縮した感のある逸品であった。アノテーション(注釈)が本性上、どうしても自己目的化し自己増殖してしまいがちなことを、頭かきかき吐露しているガードナー老、読者からの新アイディア投稿がたまって困るということも漏らしていたので、きっとと思っていたら、1990年、"More Annotated Alice : Alice's Adventures in Wonderland & through the Looking Glass" 巨大本がお目見え、早速『新注アリス』2巻として訳した。

まさかと思っていたら、また増補版が出た。『決定版注釈アリス』 "Annotated Alice : The Definitive Edition" (W.W.Norton, 1999)。おそるおそる読んだが、基本は前の2点の合本。追加注も付録の類もそう目新しいものなく、旧著訳者としては妙にホッとした。

それが、同じキャロルのノンセンス詩の奇作『スナーク狩り』にガードナーが注を入れた『詳注スナーク狩り』の方も、<決定版>の名を付したもの "The Annotated Hunting of the Snark : The Full Text of Lewis Carroll's Great Nonsense Epic the Hunting of the Snark" (W.W.Norton, 2006) が登場した。もとの『詳注スナーク狩り』も傑作である。理系で通るガードナーのロマン派文学へののめり込み方がそこいらの英文学者まっ青の 『詳注老水夫行』 "Annotated Ancient Mariner : The Rime of the Ancient Mariner" と併せて邦訳すべき逸品である。以前『ルイス・キャロル詩集』(筑摩書房)が出て、「スナーク狩り」が訳され、一定量の注が付いた時も、ガードナー注から一部かすめとっただけのものだった。この際、久しぶりにガードナー詳注本に訳者として改めて付き合ってみるかと思った。

そこへ河合祥一郎編注の今回作だ。東大ばかりかケンブリッジ大学で博士号を取った稀にみる秀才の英語力は、この詩をめぐる韻律への深い理解をさりげなく披瀝する「解説」に十分明らかだから、最近も『リチャード三世』の斬新訳で世間をアッと言わせた河合氏自ら訳してもよかったのだ。

訳本体は高橋康也氏生前の旧訳。周知のように河合氏は高橋氏の娘婿に当たる。「スナーク狩り」は『鏡の国のアリス』収中の「ジャバウォッキー」詩とも密接な関係があるが、そのこともあって父君の「ジャバウォッキー」訳詩と名著『ノンセンス大全』収中の「ジャバウォッキー」、『スナーク狩り』をめぐる文章の悉くを収める付録を非常に有難く思う読者は少なくないだろう。この「付加価値」は絶大だ。

注はどれも文句なく面白い。宮部みゆきの『スナーク狩り』が引き合いに出されてきたりの絶妙は、当然、ガードナー本に望むべくもない。日本のキャロリアンたちの研究も進化しているらしい。そこをよくすくい取っている。これからスナークなる謎の怪獣退治に行くという時の荷造りされた荷のひとつに42という数字が描かれている(挿絵ヘンリー・ホリデイ)。『スナーク狩り』を書き始めた1874年にキャロルが42歳だったからなどという通説は、こう吹き飛ぶ。

四十二という数字は、キャロルには特別な意味を持っていたらしい。楠本君恵氏は『出会いの国の「アリス」』(未知谷。2007)にこう記す。――「キャロルは1832年生まれだった。アリスが1852年生まれだと知ると、数学者キャロルはまさに運命的なものを感じたのかもしれない。ふたりの生年の下二桁の32と52の間にくる数列上の数字42をマジック・ナンバーとして(約数、倍数も含め)、作品の中に文字にして散りばめた」。たとえば本書の「序文」には航海規則第42条への言及があり、『不思議の国のアリス』第12章ではハートの王様が「第42条。身長一マイル以上ノモノハ全員法廷から退去スベシ」と読み上げるし、キャロルが37歳で上梓した詩集『幻想魔景』第1歌16節には、作者自身とおぼしき「42歳の男」が登場する。また、最初のアリス本には挿絵が42点あり、二番目の本も最後に変更されたが当初は42点の挿絵を入れるはずだったという・・・。

いちいちフウン、へエーッの良質な「トリヴィアの泉」感覚の愉しい小発見である。詳注の自己増殖ということで言えば、日本キャロル協会員木場田由利子女史のホームページにリンクしてみると面白い。アリスと一緒に地下に行く白兎が数字化してみると42になるという奇怪な読み方に発し、アリス・ストーリー全体に42が遍満する様子を次々明らかにするばかりか、キャロルがE・A・ポーと数秘術的にも深く繋がっていたとする呆然の論に至るのだ(キャロル協会機関誌 Mischmasch 第5号 [2001年] )。河合氏の折角のほどよいバランスの先へと突き抜けてしまいかかっている。「詳注」はこうして焼酎に通ずで、ほどほどに酔うが肝心。詳注好きのぼくなど、いつも書き込み過ぎて失敗してきた。

河合氏による注の数は42(「なお、本書の注釈の数も42」)。節度と遊びのこのバランスは妙に父君に似たものがあって、なかなかの親子鷹本である。

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