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『モスラの精神史』小野俊太郎(講談社現代新書)

モスラの精神史

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人的交流というメタモルフォーゼ

近時、これほど驚き入った本はない。新書なのに戦後日本の政治と文化の関係を考えるエッセンスを余さず凝集してみせようという覇気が凄いが、それを映画銀幕に飛翔した一匹の巨大蛾の意味論をもって語り尽くそうという野心がさらに凄い。大成功している。表題にいう「精神史」は、厳密にいえば、ドイツ観念論由来のなかなか難しく、また一般の史学から受け入れられていない批評の方法ないし感覚なのだが、それが文化史と結びついてでき上がる、いま人文学で一番面白く豊穣な局面たりうることを、何よりもこの小さな大著がこうして現に目の前で立証している、と感じる。

都市を破壊する巨大な蛾を思いついた原作者たちの脳裡に生まれたものを、著者はしきりに「奇想」というが、この書そのものが批評的奇想に満ちたマニエリスム感覚いっぱいの仕事なので、マニエリスム好きのこの書評読者に、マニエリスムが批評的に発動するとこういう仕事になるというなかなか華麗な例として、とりあげてみた。

怪獣映画の名作『モスラ』を、ぼくなど中一か中二で観た。団塊世代は小学生時代を通して黒白の陰惨なゴジラ映画、翼竜の破壊獣ラドン、そして「総天然色」巨大画面のモスラを一系列として体験したわけだが、この頃の、伴走してくれる批評というものがあるわけでなし、ただ何とはなしのノスタルジーで思い起こす以上のものではない。だから、中沢新一の「ゴジラの来迎」や長山靖生による怪獣が何故「南洋」から来るのかを説くエッセーには、心からびっくりした。『幻想文学』誌の「ロストワールド文学館」特集以来、恐竜をめぐる文化論が可能という斬新な方向があることは知っていたが、そこいらの穴が小野氏の新刊で一挙に埋まったという感じがする。

モスラがモス(蛾)という英語から来たと知って驚くようなことでは、その先が大変だ。南洋インファント島に、水爆実験下、赤いジュースの効力で元気に暮らせている人間たちがいると聞いて探検隊が行くが、唯一女性の花村ミチが、華村美智子とイメージできさえすれば、これが60年安保で命を落とした樺美智子を隠した暗号であることくらい自明だと指摘されて、驚くほかない。文学をまず暗号として解けという遊び心満点の――とは完全にマニエリスム的な――脱構築批評に著者が一時どっぷりだったことを知るぼくなど、思わずニッコリ微苦笑してしまうが、どっこい1961年、60年安保闘争の翌年というタイミングで封切られた『モスラ』の究極の意義を、日米安保条約地位協定、沖縄をめぐる政治情勢を突く非情に政治的な映画であるという一点に求める揺るがぬ視点に立つと、花村ミチは当然のように樺美智子でしかなくなるのである。さまざまな批評方法の遊びが怪獣のカルチュラル・スタディーズとして立ち上る――というか、蛾だけに舞い上る――プロセスを楽しめる。

何よりも驚いたのは、子供向け怪獣映画『モスラ』に堂々の原作があり、しかもそれを書いたのが戦後「純」文学を代表する中村真一郎福永武彦堀田善衛のトリオであったということだ。低迷する文学の現状打破、文学と大衆文化の繋がりの模索という前衛的な文学実験であった原作は、そのことも反映して、メタモルフォーゼ(旧套からの変容、と同時に主役の巨蛾が幼虫からサナギになり成虫と化す、いわゆる「変態」をも指す)テーマの奇作となった。

これにシナリオ作者・関沢新一が係わり、本多猪四郎、円谷英ニという映画サイドの人間が係わり、作曲家・古関裕而が係わり、フランキー堺ジェリー伊藤(つい先日他界。祈御冥福。低い渋い声と歌声の大ファンだった)といった怪優が係わる。東宝としての思惑だの、東宝(これが東京宝塚劇場の略だと今回初めて知った!)の持つ歌や踊りのレパートリーという財産だのが絡まって、「シナリオ作成と編集の過程で」原作がどんどんスペクタクルに変えられていく、原作歪曲の「変態」ぶりへの分析が主軸。この軸のめざすものは「50年代から60年代が持っていた人的つながりに由来する豊穣な生産力」への絶対的賛美である。関係者一人一人が、南方戦略への応召だの、飛行機好きだの、それぞれの人生の特徴をどこかで『モスラ』の変態に反映させているという。そうした「少なからぬ因縁」の大糸細絲を次々たぐりにたぐる小野その人の、文化批評家としての急速なメタモルフォーゼに感動した。氏が大いに依拠する長山靖生や、ひょっとして鬼才・井上章一の域に確実に迫りつつある。

なぜ蛾なのかを日本養蚕業の古層と「女工哀史」と結びつけ、モスラを中島飛行場や国産プロペラ機開発史と結びつけ、関沢新一宮崎駿との隠れた関係を追うことで『風の谷のナウシカ』のオーム(王蟲)がモスラの末裔だといい切る。「溶ける」「並べる」が小野批評のキーワードのようだが、異物結合による認識開眼をマニエリスムというなら、ここにあるのは近時稀な批評的マニエリスムといわいで何というのだろう。胸、すいた。

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