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『愉悦の蒐集-ヴンダーカンマーの謎』小宮正安(集英社新書ヴィジュアル版)

愉悦の蒐集

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ヴンダーカンマーを観光案内してくれる世代が出てきた

16世紀という不思議な時代の「手」と機械――職人たちのマニエリスム――というテーマで取り組んだ本が、少し見方を変えると期せずして一シリーズとして出てきた動きにつき合ってきたが、その仕上げにぴったりという一冊が、ぴったりのタイミングで読める。それが今回とりあげる『愉悦の蒐集-ヴンダーカンマーの謎』

山本義隆『十六世紀文化革命』(〈1〉〈2〉)、また『レオナルド・ダ・ヴィンチの世界』が少々ごってり没入させる大冊であったのに比べると、先回の『ダ・ヴィンチ 天才の仕事』同様、図版フルカラーでとかく見せる/魅せる。16世紀――もう少し今に近い側でいうアーリーモダン――を徹底して見せようという美しい本で、視覚的インスピレーションの宝庫というだけでも一冊買って手許に置いておきたい。これが千円というのが一昔前では信じられない。印刷文化の進歩と新書ブームのお蔭だ。

この書評シリーズでも執拗にチェックしてきたヴンダーカンマーの文化史のさまざまな側面をほとんど余さず要領よく整理してくれるのが有難い上に、今時の美術館めぐりガイドブックのノリで、著者自身がヨーロッパ各ヴンダーカンマー巡礼をして、それぞれの現在のたたずまいで紹介してくれているのが、類書(といっても、そうあるわけでない)に絶対ない魅力だ。ヴンダーカンマー研究書は、ぼく自身、一時かなり蒐めたものだが、肝心の図版類はどれもこれも似たようなもので、あまりインスパイアされることがなくなっていた。見たこともない視覚材料で網膜がおかしくなるのは斯界御大のパトリック・モリエス"Cabinets of Curiosities"で、2002年。眺めて嬉しいという点では、小宮氏の本はお世辞でなく、それ以来の嬉しさである。文化史ファン必携。タイミングや良し。

驚異博物館と訳されることが多かった“Wunderkammer”は1964年、故澁澤龍彦『夢の宇宙誌』に「妖異博物館」の訳語で登場し、盟友種村季弘訳のG・R・ホッケ『迷宮としての世界』(邦訳1966年)に「驚異博物館」の訳語として出て、1960年代末からのいわゆる澁種文化最大のキーワードということで、本邦読書界には結構いいタイミングで入り込んだのだが、この珍物収集施設に力を与えていたと例えばホッケが言う、マニエリスムのGeistesgeschichte(精神史)が学者の一部にアピールしだしたのは、やっと1990年代に入ってからのことだ。

ホール天上からでかいワニがぶら下がっている。互いに脈絡ない天然産物、人工産品、天然か人工かもわからない物が、カテゴリーも用途もよく見えないまま一見雑然と集められている。宇宙がそういうものだとするプレニチュード(充満)の神学的宇宙観から、16世紀から一世紀半かけて新旧両価値の大交代中に目覚める世俗的「好奇心」へ、という展開を時系列に沿って追う中に、そういう変化がこれ以上ない形ではっきり読みとれるものとしてのヴンダーカンマーの姿を浮き彫りにする。世界史だの哲学史だので認識されつつあるこうした「歴史」の知識も、見る素材、変わった手掛かりから見直すとこんなにも新鮮、という新歴史学の爽快味も伝わる。これが18世紀半ばの博物学、とりわけ分類学流行を経、ナポレオンの「略奪美術館」(佐藤亜紀氏の名著標題)を経て、ヴンダーカンマーが没落するところまで丁寧に追う。いずれ松宮秀治『ミュージアムの思想』(白水社)を取り上げるが、小宮本もミュゼオロジー(ミュージアム史)として長大な歴史的展望をちゃんと具えていて、図版の売りに引っ張られるばかりの軽薄書とは全然違う。

小宮氏は『オペラ楽園紀行』集英社新書と縁を持った。オペラ狂いのドイツ文学者だから、ドイツが本場のGeistesgeschichteにいずれ展開せざるを得ない人種。ぼくの周りでいえばモーツァルト狂の原研ニ氏などの同族かと思われる。大体がヴンダーカンマー研究は、ドイツでは1920年代、1950年代に展開され、英米圏などはるかに遅れてやっと1990年代という形勢なのだが、その独語圏で最初にヴンダーカンマーをテーマにしたユリウス・シュロッサーが美術史でいえば「ウィーン派」だったというなにげない指摘に、小宮氏の持つ今後の底知れぬ広がりが窺える。同じウィーン派1920年代を牽引していたのが、ずばりマニエリスム概念を初めて打ち出した『精神史としての美術史』(1924)のマクス・ドヴォルシャック [ドボルザーク] だったことを考え併せてみれば、わかる。

そんな難しいことはよい。ドイツ音楽史家としての造詣が活きるのも、小宮氏の拠る奇著『グロテスクの部屋』(作品社)の原研ニ氏と同じだ。『ダ・ヴィンチ 天才の仕事』で一番驚かされたのは楽器をグロな怪物のデザインにしたという流行だったわけだが、怪物的世界を調和に変えるもの即ち音楽、という構造をデザインに寓意化したのだと著者に言われて、至極納得がいった。中でもびっくりしたのは「自動作曲機」のことで、次のようになる。

・・・宇宙を思わせる巨大な箱の中に、音の高低や長さ、和音を記したカードが入っていた。そしてそれらを自由に組みあわせれば、一つの曲が完成する仕組みになっていた。カードに記されている情報は人間が考え出したものでありながら、組みあわせの過程において多くを偶然性に頼り、人間の思惟が入り込む余地を排する。その結果、おそらく宇宙に鳴り響いているのと同じ音楽を、この世界の存在である人間も享受できるはずだった。

 自動作曲機も、現在からみれば過去の遺物にすぎない。だが一方で、実に現代的な発想のアイテムでもある。情報の組みあわせによって、一篇の曲が出来上がる。それは、コンピュータが自動作曲する様を彷彿させるだけではない。機械が自動的に筆記をしたり作曲をしたりするというアイディアは、20世紀のシュルレアリストたちにとってもインスピレーションの源であり、現代のアート・シーンにも大きな影響を及ぼしてきた。

 ヴンダーカンマーの音楽コレクションに込められた、世界の調和、宇宙の調和への想い。それは、形を変えながらも、尽きることのない力を保ち続けている。


(p.76)

ヴンダーカンマーがマニエリスムのアルス・コンビナトリア原理でできていることを音楽を通して説いた面白い一文で、現代とのつながりも意識されている。ガイドブックというなら、その域を超えている。

と、そこまでは感心一途なのだが、参考文献にどうしても少し文句がある。1990年代いっぱい、このテーマの欠落を一人で補ってきたつもりの高山宏のかなり多量なはずの材料に一言の言及もないのは、度量の狭さか、ただの無知か。エルスナー、カーディナルの『蒐集』はどうしたのかな?1969年という、このテーマの未来にとってなかなか印象的な年に生まれたこういう新世代のためにという一心で訳したスタフォードの『アートフル・サイエンス』にしても、ウィーンの薬種屋のキャビネットに生じたヴンダーカンマーの最期を扱い、まさしく小宮正安のような人のための材料提供だったのに、この無視もしくは無知って何だ。無念である。パトリック・モリエスの驚異博物館論は見たのだろうか。あるいはアダルジーザ・ルーリの(挙げられているものより後の)遺稿は?ルーリのこの本はたぶん小宮書のデザイニングに影響あったはず、そう、R・J・W・エヴァンズは?

ま、望蜀の妄言か。自らの足でヨーロッパに飛び、自らの目で見てきた絶対の強みは、爽やか、かつ貴重だし、参考資料書目の最期にウェブサイトが紹介されるあたり、この世界にも当然の新世代の風だ。老兵去るべし!原とか小宮といった人たちに、いま爆発中のドイツ「メディア革命」の息吹きをどんどん伝えてほしいなあ。

それにしても「現代版人間ヴンダーカンマー」こと編集者椛島良介って、どういう人なんだろう。アラマタの他にそんな人、いたんだ!ヴンダーバール!

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