書評空間::紀伊國屋書店 KINOKUNIYA::BOOKLOG

プロの読み手による書評ブログ

『時の娘たち』鷲津浩子(南雲堂)

時の娘たち

→紀伊國屋書店で購入

ひと皮むけたら凄いことになるはずの蓄積

いろいろなところで書いた通り、ぼくの出発点はメルヴィルの『白鯨』(1851)で、その書かれた時代をF.O.マシーセンが「アメリカン・ルネサンス」と呼んだことで田舎者だったアメリカ人たちが急に文化的に元気になったというが、ぼくは、その馬鹿馬鹿しい呼称以上の真に「ルネサンス」として高く評価すべきだという確信に至った。簡単に言えば、人間が神よりも<私>へ関心を移さざるを得ない状況に後ろ暗さを引きずりながらも次々に知的な大発明をうんだ(御本家の)ルネサンスが「新世界」でそっくりリピートされる状況を、マシーセンは言祝いでいたと感じたし、もしそうであるなら、そういう栄光のルネサンスが後半に抱えることになった後ろ暗い自意識過剰の文化が、少なくとも20世紀いっぱいかけてオルタナティブルネサンスという意味でマニエリスムと呼び換えられ、独墺を中心にその問題が緻密に煮詰められている今、アメリカン・ルネサンスならぬアメリカン・マニエリスムと呼んでアメリカ文学史を書き換えればいいのに、と思い続けてきた。16世紀マニエリスムを引き継いだのが18世紀初めのロマン派、それらをまとめて引き継いだのが20世紀初めのハイ・モダニズム、それらを継いだのが1950~60年代、という今では常識と化した線に、メルヴィルやポーのみか、ピンチョンやミルハウザーもぴたりとはまってしまうのではないか、と。

要するに今でいう領域横断の精神史(Geistesgeschicte)の話になる。やれそうなのは長上世代に八木敏雄氏一人、同年輩か下には巽孝之「青年」ただ一人。ぼくは「英」文学の人間、何も特にうるさそうな英と米の守備範囲を越えてまでちょっかい出すこともないと思い、『白鯨』エッセーを「卒論」に仕上げて以来ほぼ四十年間、わずかな例外を除いてアメリカ文学研究をテーマに文を綴ったことがない。例外は唯一「ペテン」の話題で、由良君美退官記念論文集にフィニアス・バーナムのことを、また『テクスト世紀末』にウィルソン・ピールのことを、そしてピールの騙し絵アートの延長線上のヘンリージェイムズ論を『目の中の劇場』に書いたのみ。それ以外はアメリカ専門の知人たちに委ねた。朝日週刊百科「世界の文学」を編集した際、アメリカン・ルネサンスの一冊を八木氏に依頼したところ、巻頭エッセーに、ついに日本初のアメリカン・マニエリスム文学論が載った!巽氏にはウィルソン・ピールを中心にぜひ、と言い続けてきている。

鷲津浩子氏は高山君の言っているようなことを大体やっている人、という噂を聞き、大変楽しみにしていたところ、どんと出てきたのが『時の娘たち』であった。科学史・技術史も含めた「知識史」という大構想をもってアメリカン・ルネサンスを捉え直そうという覇気をひたすら慶賀慶賀で爽快に読んだ。そこで前回に引き続き鷲津浩子著だ。

ロマン派時代に歴史の長い「存在の大いなる連鎖」的有機体宇宙観に限界が来て、時計に喩されるような機械論的な発想が前に出てくるという問題を、「科学革命」やジョン・ロック帰納法の発明にまで遡って論じる。たとえばメルヴィルの『ピエール』に出てくる神の時と人間の時間のずれを仮託されたクロノメータという計時機械について、本当はそれが神の時を表すような機械でなかった技術史の現実を知れとする目からウロコの議論も。

 このような論理の背景を知るためには、もうすでに何度も言及している知識史の概観が有効だろう。すなわち、アリストテレス・スコラ学派の「旧学問」の質的演繹法が、知識革命を経てベーコンを旗手とする「新学問」の数量的帰納法へと移行したものの、「帰納法の問題」が起こった結果、何が典型で何が例外であるかを判断する暫定的法則に対する必要性が浮かび上がったということである。ここには、もはやベーコンが暗黙の了解とした宇宙の予定調和はない。あるのは、百科全書的な目録集大成、組織的体系を約束しているように見えたリンネ式植物分類法やキュビエの比較解剖学、失われてしまった予定調和を求めたドイツ自然哲学やアメリカ超絶主義である。(p.131)

いまさらとも思うが、とにかく不当に遅れているアメリカ精神史的文学論がやっと開くかという感慨がある。展望は大きいし完全に正しいのだが、兎角文体が硬い。同じ展望を開きながら中高生でも愉しめるマージョリー・ニコルソンの技を勉強すれば良い。というか、この本が出た時の鷲津氏に二番目に近いニコルソンの著書に一言も触れていないのは、やはりおかしい。一番近いはずのバーバラ・スタフォードへの言及もない。『時の娘たち』が刊行された2005年時点にはスタフォード主著は全部出ていたはずなのだから、これははっきり無知である。科学と「からくり」が交錯する現場をホーソンやポーに見るところに魅力ある『時の娘たち』がスタフォード“Artful Science”(邦訳『アートフル・サイエンス』)でかなり広大なパースペクティブへと引き出されることは確かだし、“Voyage into Substance”を読めば『時の娘たち』のキーワードたる「ネイチャー」の意味づけが相当変わらざるを得ないと思う。気球の文化史がないから自分のポー気球幻想譚の分析はユニークと仰有っているが、そんなものはスタフォードがさんざんやっているし、民衆的想像力の中でのロマン派時代の気球ともなれば、リチャード・オールティック『ロンドンの見世物』で既に一定の結論が出ている。やはり「筑波系」は批評に強く、文化史にまだまだ弱い(あとがきの気取りもやめた方がよろしい。つまらんです)。

新知見を誇る参考文献は実際なかなかのもの。村上陽一郎山本義隆以外はずらり最新鋭の洋書というリストは圧倒的。と言いたいが、ロレイン・ダストン他の“Wonders and the Order of Nature 1150-1750”(1998;Hardcover2001;Paperback)を読むほどの人が、同主題をずっとアメリカ19世紀に近いところで大展観したスタフォードを知らないのか。まさしく鷲津氏のような人のために翻訳紹介を続けてきたのに空しい(本をご存知であれば、当然、英語でお読みになったはずではあるが)。うーん、頑張ってよ。

→紀伊國屋書店で購入