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『綺想迷画大全』中野美代子(飛鳥新社)

綺想迷画大全

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ディテールの神に嘉されて永久に年とる暇などない

めちゃめちゃ知識を強いるポストモダン批評満載の建築学の本が続いて流石に頭が痛い、少し楽しいビジュアル本で目を楽しませようというか、同じ痛いのでも目に痛いタイプの本を新刊で何冊か選びたいと考えていたところ、そういう仕事なら今現在ナンバーワンたる第一人者シノロジスト[中国文化史家]、中野美代子先生の『綺想迷画大全』が出てきた。以前『乾隆帝-その政治の図像学』を取り上げたが、大新聞のドケチ書評欄みたいに一著者は一年通じて一度のみというようなことをぼくは言う気などさらさらないし、それに中野先生といえばビジュアル本、それも作品社叢書メラヴィリア収中の『肉麻(ろうまあ)図譜』で特に色彩絢爛の中国図譜に関して一体どれだけ未知な材料を持つ人なのかと常々びっくりさせてくれるお仕事ぶり、なのに新書版の限界で『乾隆帝』はビジュアル華麗という印象を残してはいない。そこで今回はビジュアル本の真骨頂ということで『綺想迷画大全』を読んでみよう。

丁寧に数えてみたわけではないが、使われた図版は150点に近い。時々モノクロームのものがあるが、わざわざカラーの適当なものがなくてと著者が申し訳ながるように、収録図版のほぼ全部が華やかなカラー図版。しかもほとんどの読者が目にしたことのない中国、東南アジア、インド、ペルシアといった地域の歴史古いビジュアルである。多くの資料源の中に杉浦康平氏の本もあるし、先般他界された若桑みどり先生が教材に使うのに最高と仰有って全巻愛読していた平凡社「イメージの博物誌」シリーズからも何点か採られている。その種のジャンルに入る本だ。杉浦康平氏の宇宙樹(『生命の樹・花宇宙』)や宇宙太鼓(『宇宙を叩く-火焔太鼓・曼荼羅・アジアの響』)といった一連のアジアの図像学をめぐる傑作群に類する。

とは言い条、口上にもあるひたすら極私的な「快楽」に動かされるまま、気随気ままを地で行った肩凝らぬ本である。今時、これだけのフルカラー大型ビジュアル本を「快楽」のまま形にでき、本にできる人はそうそういまい。目に痛いと先に言ったが、帯の惹句に「この絵は眼にしみる!」と書いてある。初出はクインテッセンス社刊の雑誌『歯医者さんの待合室』に「この絵は にしみる」という題で三年間36回連載したものを加筆・再編成したものとあって、笑えた。本当にカラーが「目にしみる」。

その36回を「交錯する異形」「空間のあそび」「動物たちの旅」、そして「いつものできごと」の四部に分ける。ふたつ繋がる回もあれば、てんでばらばら、自在にどこから眺めてもよいというルースな構成。印象としては図版は150できかず、もっとずっと多いはず、と思って眺めだすと、ひとつの図版が部分図としてどんどん増殖していくので、実はもの凄い数になるのだ。

それもそのはず、ディテールにこだわることで一見ワケの分からない絵の意味を解き明かす中野流図像学のエクササイズ、という本なのだ。龍を射とうとしている射手の体が当の龍の体と繋がっているのはなぜか、「ふしぎを解いてくれるかもしれない鍵が、つぎの図6のなかにかくされています」(p.56)というやり方で、どんどん「つぎの図」に拡大されていく「部分」図に読者は誘い込まれていく。思うに中野女史の頭の中には少々信じ難い量のビジュアルの集積があり、それが徹頭徹尾、熊楠や澁澤ふうのアナロジー感覚で次々と繋がれていく。澁澤、熊楠のみか、キルヒャーバルトルシャイティスエーコ、そしてピーター・グリーナウェイと、中野女史偏愛の人々が本書にも繰り返し召喚されるわけだが、考えてみれば、皆、バーバラ・スタフォードのいわゆる「ビジュアル・アナロジスト」たちである。得がたい系譜だ。

ぼくはスタフォードの一連の視覚文化論の大冊を片端から邦訳しながら、彼女の純欧系の作業を、東アジア域、あるいは特に中国・日本についてやって欲しいものと念じつつ、最高の読者として杉浦康平荒俣宏松岡正剛田中優子各氏ともう一人、真芯に中野美代子を想定しながら訳を進めていた。だから本書序文(「前口上」)で、いきなりスタフォードの『ボディ・クリティシズム』と『実体への旅』を念頭に「ひるがえって中国では?」というのがこの本のアイディアであると宣せられて、いやはや虚脱するくらいびっくりし、かつ嬉しかった。スタフォードとか同系統のロレイン・ダストンとか、確かに中野女史が指摘されるように、アーリー・モダンの「驚異」の文化をめぐるこのところの欧米の研究と出版の活況はもの凄い。その辺の新刊を極力チェックし通した丸善の美術関連洋書新刊案内『EYES』の最高の読者がミヨコ・ナカノであったことを、カタログ・メイカ高山宏はいつも念頭に置いてビジュアル洋書紹介に努めてきた。そちらの新しい動向を実によく押さえている気配が、この新刊にもパリッと如実である。そのあたりのどこかで先生はドリス・レッシングにそっくりだと、ぼくは中野女史に申し上げたことがある。レッシング、本年度ノーベル文学賞。先生、まだまだやるお仕事、いっぱいありますよ。

西欧ビジュアルについてはそれこそ澁澤的文化を介してかなりよく知られてきたし、そのアジアとの繋がりでは例えば荒俣宏の功績大だ。がやはり、殊に中国については、つらつら見るに中野女史のストックが断トツ。

この『綺想迷画大全』でも、まくらに置かれる洋ものは今や例外なく我々熟知のものだ(それにしてもクリヴェッリとウッチェルロへの偏愛ぶりは本書でも改めてよくわかる)。やはり、当然ながら中国の材料が面白い。面白過ぎる。

山川に都邑に悠々たる時間が流れ・・・といったイメージが中国ビジュアルの基本としてあるが、そういう山水画、仙人画、そして都市パノラマにも中野女史のディテール狂いの目が入り込んでいく。そういう文章がとりわけ面白い。伝・馬麟『三宮出巡図』(p.76「かわいい魚介たち」)とか伝・仇英『群仙会祝図』(p.84「仙人飛行図」)とか、それこそ見ても見ても次々にディテールに目が移ってきりがない。空間恐怖と悠々の弁証法が面白い。定規でびっしり線を引いた建築図(界図・宮室というジャンル)にもびっくりしたが、余白があると後世のコレクターたちが自分の架蔵印をあとからあとからベタベタ捺していくというハンコの真空恐怖の話(『鵲華秋色』図)が、長年の謎が解けたという意味で個人的には一番勉強になった。

全巻白眉は「いつものできごと」という部立ての27・28・29章であろう。18世紀宮廷のフィギュア・スケート式閲兵式のパノラマ図(清代の『冰嬉図』)は材料の斬新にあっけにとられる。それよりも、タテ35.6センチ、ヨコ11.5メートルの壮大な画巻(絵巻)、清院本『清明上河図』(12世紀)が絵としても面白いし、右から左へ巻物相手に移動していくいわゆるローリング・パノラマの都邑風景に中野女史が付していく説明文が面白い。ひとつの材料で『歯医者さんの待合室』の連載2回分つぶした唯一のケースで、いかにこの材料が本書のメインであるか納得がいく。絵のディテールと中野女史の言葉による描写の往還のうちに、我々は識らず“Ut pictura poesis”(画文一致)の典型例を見ることになる。当然文章が一番多い章になり、絵はたった一点。それが「部分」図に分解されてはディテール分析の材料になる。「まちなみ散策」で概述された後、虹橋なる橋(表紙の橋だ)の上のマーケット、橋のつけ根の橋市の賑わいが一章縷述される。わが源内が『根無草』四の巻冒頭に記した両国橋上の殷賑ぶりを思いださぬわけにはいかないが、帝室が下々のことを知りたくて禁城内に巷の市そっくりの仮設市街を虚構したというマイマイジュ(買売街)を中野女史が連想している文章が、壺中天のミニチュア趣味、パラドックス愛好に目のない先生らしくて面白い。まるで江戸古典落語の「二階ぞめき」の面白さだ。

この本に一番似ているのは田中優子『江戸百夢』だ。同書でも一番面白かったのは、江戸都市観相学の霊感源となった昔の中国の都邑パノラマと橋市の賑やかしについての文章だった。これは一体、なんだろう。

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