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『遊歩のグラフィスム』平出隆(岩波書店)

遊歩のグラフィスム

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グラフィックな快感に御褒美のあめ玉を

整理整頓ができない理由を、自身の「極端な秩序志向、まっすぐな整調的思考」にあると思い至ったところから、この遊歩ははじまる。散らかった机を今片づけてもまたすぐに散らかるのだからそこに時は費やさず、もっと大きな「理想的な整理のための器、構造、システムの設置」に心を急がせるべき——その最初の実験が、5×6=30の小箱を重ねた名刺整理用の箱で、著者は日本人の姓のイニシャルにはKが多いということを、20年前から体験で知ることになる。

共通の頭文字を持つ人の名刺を入れる箱も、一日の終わりに記された日記も、一日一通と決めて出す葉書それ自体もその行為も、原稿用紙の升目や地図、そこに記された場所・家・小屋も、学校の教育制度も科目も、階段の一段ずつも。それぞれすべてなんらかのくくりを持って、広い広い世界に断片として在る。断片や断章とは「他のどのひとつにつながってもいいしつながらくてもいいという自由」によって著者を魅了し続け、この本のための原稿も、時間と分量を定めた連載(「図書」2004.9〜2007.2)という書法で著され、その断片を一冊にして俯瞰したときに、「原型としての知り合い」たる断片がいずれつながり現れてくるかもしれない自身の「わが生涯の図式」を浮かび上がらせることへの期待と愉しみにより編んだのだと、あとがきにある。

     ※

日本の近代文学の中で「断章という形式の半形式性にもっとも自然に寄り添うことができた」と著者が考える正岡子規と、なによりヴァルター・ベンヤミンに多くのページがさかれているが、断片・断章を明確に伝える形状である罫線や升目へのどうしようもない執着や偏愛ぶり、そしてそれを執着や偏愛で片づけてはならぬ詩人・作家としての筆に惹かれる。数寄者か好きものか。そのふたつの狭間にまず迷い込むに違いない著者は、「機械的な、またはグラフィックな快感」を起動力に、あらかじめ用意されたものとは別の座標軸を言葉によって示し、数寄者と好きものをなんら矛盾なく配置するグリットを仕上げてしまう。

そして「人間という生命体は、ほぼ一律な日記帖にわずかな変化を刻み付けるほかない。それでも、日記帖や年表の罫線の立てかたにも、幾種類かがないわけではないだろう」と旅先で様々な日記帳を買い集めたり、快適な感覚を得た階段に鉛筆と紙を持って立ち戻りサイズを測ったことを発端に、遊歩のための素直な階段の設計公式(60<踏面+0.135×蹴上の二乗<70)を作ってしまうあたりは、「理想的な整理のための器、構造、システムの設置」を求めるために必要な、最小の断片を身のうちに得るための実験の原初であると思わせる。やがてそれらは著者によって揺さぶられて打ち重なり出し、混沌のなかにもっとも生き生きとした時間を迎える。それは著者が「過渡期にあらわれる古代」と名づけた時間で、その記録をわたしたちは読むことになる。

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この本に多く引用された正岡子規の『墨汁一滴』を読み直すと、平出さんが感じる「機械的な、またはグラフィックな快感」、それを、『遊歩のグラフィスム』で追体験して得るこちらの快感と同じような快感が改めて残る。3月14日。相変らず苦痛に耐える毎日に閉口する子規が6歳の少女の画に目を留める。支那風の城の窓を横に3等分して「オ、シ、ロ」の文字、「実に奇想だ」と、絵の細部を日記に記す。「うれしくてたまらぬ。そこで乾菓子や西洋菓子の美しいのをこの画に添えて、御褒美だといふて隣へ持たせてやつた」。よろこび。それを書き留めねばおれないひとたち。平出さんはそのことを以下のように著したが、わたしはそれを「平出隆は」と読みかえて、御褒美のあめ玉を上にのせ、菊地信義さんによるシルバーの升目の美しい表紙のこの本を閉じるのです。


子規は自分の中から瀼々と湧いてくるものを実感したとき、ためらわずにそれを排出しようとした。しかし、同時にそこに一定の書法を、いわばグラフィスムを与えようとした。


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