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『潜在的イメージ-モダン・アートの曖昧性と不確定性』 ダリオ・ガンボーニ[著] 藤原貞朗[訳] (三元社)

潜在的イメージ

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曖々然、昧々然たる(ポスト)モダニズムの大パノラマ

曖昧さ、曖昧性を指すアンビギュイティ(ambiguity)という言葉は、心理学で愛と憎のふたつがひとつ心の中に併存することを指す語、アンビヴァレンス(ambivalence)と一緒に流行った。両語に共通する「アンビ(ambi)」について、本書本体の冒頭でダリオ・ガンボーニはいきなり、こうまとめている。

曖昧性とは、反則的に「複数の解釈を受け入れる性質」として定義される。また「二つの範疇に属するもの」、「正確さを欠き、困惑させるもの」とも定義される。曖昧性に二つの要素が関与することは、語源に暗示されている(ラテン語の「アンボ ambo」は、「同時に二つ、二つ一緒に」を意味する)が、二つ以上の場合に意味を拡大適用することもある。この場合には、特殊な例があり、肯定的性質を表す際に、反語的に否定的な含意を示すことがある。その結果、否定的な含意が主要な意味となることも多い。類義語には、「定義、確定、境界づけを明確になしえないものの性質」を表す「不確定性」、「複数の内容、複数の意味を有する記号の性質」を表す「多義性」、「両義性」、「漠然性」、「不正確さ」などがある。(p.19)

日本語の「あいまい」は未だにこういう広がりある「曖昧」の多元多重の意味合いを勝ち取れず、専ら「否定的な含意」でのみ通用している。従って広義に、肯定的にそれを使おうとして、例えばズバリ、『文化と両義性』他の著作で山口昌男氏は「両義性」の訳語を採った。現実の多重性・多元性という言い方もする山口象徴人類学(『文化の詩学〈1〉〈2〉、他)ではあるが、つまりは同じことを言っているのである。中沢新一氏が故河合隼雄氏などと「あいまい」概念をめぐる論叢を岩波書店から出した(『「あいまい」の知』)ことは以前に紹介したが、これも同じ流れである。いっとき「ファジィ」という少々難しい概念が「ゆらぎ」という訳語とともに流行したのも、ごく最近のように感じるが、こちらはもはや死語である。ぐっと俗化した「アバウト」という妙な言い方は今なお元気で、よく使われている。

アンビギュイティおよびアンビギュアスは、ぼくのように1960年代末の世代に属する英文学者が最も強烈に影響を受けた観念である。1930年代から約20年ほどかかって、ほとんど初めてといってよい強度を持つ英文学関連の批評理論としてニュークリティシズムという大きな動向があり、文学作品を評価する客観的基準として、パラドックスアイロニー、アンビギュイティの三本柱を提示した。表向き言われていることとは違う、あるいは少しズレた別の意味を併せ持った発想および修辞を指す、互いに重なり合う三本の柱ということである。

決定的なのは、数学畑出身の大批評家ウィリアム・エンプソンの“Seven Types of Ambiguity”(1930年初版/邦訳『曖昧の七つの型』〈上〉〈下〉)である。順列組合せ(combinatrics)の数字を専門としている秀才らしく、並び合う語と語の間で生成される意味の可能な形を列挙し、そのうちのただひとつだけを正しい「解釈」と唱える傲慢を嗤う。多元的解釈の可能性を残せというニュークリティシズムの旗手の主張は、1960年代の、たとえばウンベルト・エーコ『開かれた作品』(原題“opera aperta”)の論旨を早々と先取りしていたことになるし、いわゆるコンスタンツ学派の「受容理論」と早くも呼応していたことになる。詩人が一篇の詩を、一語一語多義的たるはずの言葉を組み合わせてつくりあげていくということが、いかに大変な力わざであるか、慄然とする他ないこの歴史的名著が、なんと岩波文庫で上下2冊となって読める。1960年代末には考えられない欣快事である。ガンボーニも当然ながら、エンプソンの鴻業を改めて讃え、同じことを視覚芸術の分野でやろうとしたジェイムズ・エルキンズの仕事に触れて全巻の幕開けとしている。この際、エンプソンの『曖昧の七つの型』(〈上〉〈下〉)と一緒にガンボーニを読むことを勧める。

ウィリアム・エンプソンの名を思いだしたのは、そういうまあ常識に類するレヴェルの連想によるものだけではない。例えば、アンビギュイティの本場と今なら誰しもがまず言うバロック、そしてマニエリスムがそもそも文化史概念として成立したのは、1880年代(ヴェルフリンのバロック論)から1920年代(ドヴォルシャックのマニエリスム論)にかけてのことだが、考えてみればこの19世紀末の最後の20年、そして20世紀劈頭の20年ほどは同時に、いわゆる世紀末アート(象徴派、印象派)~モダニズム諸派キュビズムシュルレアリスム)、アートの大革新の半世紀でもあって、その凝縮された時間の中で、模倣を良しとするアート観にピリオドが打たれ、アーティスト側の内面が投影/表現されたものこそアートだという基本的なアート観がほぼ確立した。文学批評のみか、哲学、心理学から数学、論理学、はては量子物理学といった多分野が互いに意識し合いながら、要するに統一的に「曖昧性」「不確定性」などと呼ばれ得る異世界の全面的な出現を言祝いだ。ニュークリティシズムもその一環だったし、エンプソンの名作はそうした知的趨勢のシンボル的存在だった。

1880年代~1920年代の理論実践一如といったアートや学知のそうした華々しい展開についてパノラミックに書ける書き手がすっかりいなくなった。ガンボーニのこの本はワイリー・サイファーの『自我の喪失-現代文学と美術における』(原題“Loss of the Self in Modern Literature and Art”)に匹敵する視野の広さをもって問題の時期の曖昧性/両義性ずっぽりなアートの百態を追う。サイファー、松岡正剛中沢新一などを通して、文系理系を問わぬ20世紀初頭の「曖昧性」と「不確定性」の文化環境について、ある程度、我々は既に知っているが、当該テーマ初の「包括的研究」を豪語している通り、おおよそこのテーマで考えつく限りの網羅を実現している本書の目次案には何度見ても喫驚するばかりだ。

もともとオディロン・ルドン研究で知られるガンボーニだから、ルドンを中心にスーラやゴーギャンから始めてキュビズム、抽象、レディ・メイド、シュルレアリスムのアート史が、「曖昧性」に関わる各分野――「大衆向けイメージや科学的イメージ、写真や初期の映画、文学、美術批評や美学、哲学、心理学、医学、オカルト研究、自然科学など」――の展開の中で追跡されていく。ルイス・マンフォード、ワイリー・サイファー、アーノルド・ハウザーといった特別にパノラミックな怪物批評家にのみ許された、一時代の文化を包括したスケールの大きい仕事を実に久々に読めて、感動し、ため息を吐いている。当然、一昔前の大先達たちの知らなかったドゥルーズは出てくる、エーコは出てくる。参照すべき同時代美術史家として登場するのはディディ=ユベルマンであり、我々のこの書評空間では批評の名手として既に紹介した故ダニエル・アラスである。それだけでガンボーニ氏の趣味の良さはわかる。20世紀アートが実践面でもマニエリスムを蘇らせたという感覚があって、今ならそのことでミシェル・ジャンヌレの『永久機関』(“Perpetuum mobile : Métamorphoses des corps et des oeuvres, de Vinci à Montaigne”/英訳“Perpetual Motion : Transforming Shapes in the Renaissance from Da Vinci to Montaigne”)が参照されるべきだが如何、と思いながら読み出すと、レオナルド・ダ・ヴィンチの「曖昧性」趣味を縷説する段で議論をジャンヌレから出発させていることがわかり、すっかりぼくはこの書き手を百パーセント、ぼくの確かな同時代人として安心して読み進める。今年刊行された16世紀関連の何冊かを既に紹介してきたが、ジャンヌレの必読の一点を自らの論に取り込めている本邦の書き手は今のところ絶無である。

レオナルドが壁の上の染み(ミショー本を想起しよう)をじっと見ながらそこに何かのイメージがうまれるのを、訓練して自らの創作に活かそうとした、厳密にマニエリスム的な「偶然性」への応接を出発点に、アンビギュイティをキーワードにしたモダン・アートのネオ・マニエリスムとしての再整理が途方もない迫力とスピードをもって遂行された。これだけの「精神史としての美術史」を読めるのは実に久々のこと。快挙だ。

類書にすぐサイファーが思い出せるように、狙いはそう圧倒的に独自のものというわけではない。例えば『西洋思想大事典』(平凡社)にはトム・タシロの書いた「曖昧」の一大長文項目が入っていて、ほぼガンボーニ路線(逆に言えば、ガンボーニは「曖昧」という観念の優れた「観念史」をやり遂げた、ということになるだろう)。予定調和の結論でもあるのだが、この遺漏許さぬ守備範囲の広さにはやはり驚嘆する他ない。これだけのものをどんどん読ませてくれる訳文に拍手。

素晴らしい(タカヤマ流の?)索引に望蜀の一言。事項索引が実によく立項されているのだが、人名索引には配慮されている欧語原綴りがない。藤原君はわかると思うが、利用価値が半減してしまうのですよ。

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