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『ウーマンウォッチング』 デズモンド・モリス[著] 常盤新平[訳] (小学館)

ウーマンウォッチング

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文明の衝突」の真の戦場が少女たちの体であること

ただ楽しく読んでいれば良いというのなら、こんなに楽しい本はない。その昔、デズモンド・モリスに「人間の知性に対する侮蔑」と叱られたフィジオノミー(観相学)と18世紀後半というかなり専門的な議論をやった時、周辺の一寸面白い関連書という感じで、大きく見開いた瞳の中にヒト一人立っているあまりにズバリな表紙のモリス『マンウォッチング』を見つけ、一読はまってしまった。逆に、彼の名を歴史的にした超ベストセラー“The Naked Ape”(1967年初版/邦訳『裸のサル』)によって動物行動学を知ったわけだが、成り行き上、セミオティックスとかプロクセミックス、キネティックといった一種の「身振り」の記号論が流行している中、進化生物学の方からサポートしてくれるなかなか貴重な存在という印象を受けた。

ヒトやサルの外形・外観に表れたどんな要素をも「視覚メッセージ」「身体信号」と捉えるやり方は、面白い実例やエピソードの紹介においてはナンバーワンたるモリスの語り口もあり、圧倒的な説得力を勝ち得ていた。外形・外観の極みというべき「ウーマン」に、『マンウォッチング』『ボディウォッチング』と書き継いで来たモリスが一巻割かぬ方がおかしいと思っていたら、きた、きたっ。何でも『ボディウォッチング』の新版を書こうとして、女性に特化しようと思い立って出来たのだそうだ。そのせいか、話は人類全体(雄も含む)についての大きな話から、では女性はどうかという入り方になっていて、単純な女性論ではない。

兎角面白い。頭髪、額、耳、目、鼻・・・と続いて、背中、恥毛、性器、尻、脚、足で終わる、上から下へという章立ては、当然「問題的な」部位は後半で徐々に盛り上がるようになっていて、妙な話、いきなり書のメタファーとしての女性身体などといういかにも男の書評者のはしたない読み方に微苦笑し、頭掻く他ない。

なぜヒトには額があるのか、なぜ鼻はあるのか、なぜ鼻の穴は下向きなのか、なぜ首に頸飾りをつけるのか、なぜドラキュラは犠牲者の首に咬みつくのか、結婚指輪はなぜ左手の薬指なのか、そもそもその指はなぜ「薬」指と呼ばれるのか。こんな問いが百以上あって、たぶんそのほとんどの答にびっくりさせられると同時に感心させられる。ぼくなど知っていたのは、トランプ他のあのハートの形は実は心臓ではなく尻の形だったのだとか、スカート丈の上下は時々の景気に比例しているといった、ごくごく僅かなことだ。これだって飲み屋で座をもたせる「話の面白いおじさん」役を二度や三度務めるには十分である。こういう体をめぐる豆知識や「トリヴィアの泉」本としては申し分ない。

人間の体というものが我々の精神活動や日常生活にいかに深く入り込んでいるかは驚くばかりで、バーバラ・スタフォードの大冊『ボディ・クリティシズム』がでか過ぎる「近代」を「身体のメタフォリックス」の体系として読み解こうとしたのもその辺だ。目からウロコの本と言ってみて、これも身体のメタファーと知れる。抱腹絶倒の書。これだって、そう。

面白いエピソードや伝説は必ず解剖学や進化生物学に引き戻される。ヒトの女性とはまず「ほかの霊長類の多くの雌が持つ特性を失」った存在、そして赤ん坊の身体の特徴を維持することで男性を惹きつけるネオテニー幼形成熟)の存在であるとし、同じ直立歩行を始めても男は狩人、女は男不在の部族をまとめる伝達者としての役割を担ったため、進化の過程で今見るような身体的差異が生じた、とこの基本的立場が揺るがないから、ただの面白話集として拡散せず、学術書としての「品格」も保っている。

このレヴェルでまず驚かされるのは、「強力な視覚信号」としての「泣く目」の分析。「人間は泣くが、他の霊長類は泣かない」ことくらいは知っていても、次など驚嘆。

・・・苦悩して流す涙と、目の表面が刺激されて出る涙を化学的に分析した結果、顔にこぼれ落ちるこのふたつの液体は、タンパク質の成分が異なることが明らかになったのだ。感情的に泣くのは、本来、ストレスによる余分な化学物質を体内から排出する手段であることを示唆するものであり、「思う存分泣けば気分がすっきりする」のも、これで説明がつく。気分の改善が生化学的な改善につながるのだ。

 泣き濡れた頬という視覚信号は、相手に、苦悩する人を抱きしめて慰めてやりたいという気持ちを起こさせるので、それをこの老廃物除去メカニズムの二次的活用と見ることもできる。またしてもわかりにくいのは、この理論と、チンパンジーなどの動物が泣かない事実をどう結びつけたらよいのか、である。チンパンジーも、野生の社会的争いでは激しいストレスを感じるからだ。(p.94)

「悲しいから涙が出るのか、涙が出るから悲しいのか」(ヘンリー・ジェイムズ)については考えたことがあるが、泣き濡れる目にこうまではっきりと二種類あるのを知って驚く。肝心なのは最後の部分で、どういう説であろうとずらり並べ、やはりおかしいものはおかしいとして、無理やり結論を出さないスタイルが貴重だ。超下世話な話ですまないが、たとえばぼくのように「女体の神秘」ということでは『男の遊艶地』だの『ビデオ・ボーイ』だので(ある時期)むちゃくちゃ鍛えられた(?)種族は、いわゆる「潮吹き」の成分が何か、ということをモリスがきちんと取り上げ、尿なのか愛液なのか、いくら研究してもなお断定できていない産婦人科の最先端(!?)の現状をそれとして記録してあるか、まず見たところ(笑)、ちゃんと書いてあり、正体良くわからぬ(p.323)と記してあった!「最近、ある男性は妻に尿をかけられたと信じこみ、離婚訴訟を起こした。女性の性器機能に関する無知とはそんなものだ」とあって爆笑した。インテリ中のインテリ、ジョン・ラスキンが勝手に崇拝した妻に恥毛が生えているのに衝撃を受けて離縁したのをエヴァレット・ミレイが同情して妻にした、という有名な実話も出てくる。

兎角面白い逸話はそれとして網羅し、真面目な対応はちゃんと真面目にし、良くわからない点は良くわからないとして開く。この大人のバランスが、同じ進化生物学を口実としながらも結局女性抑圧の猥書、却っていかがわしくなった擬似科学的医書――「アウラ・ヒステリカ」――のパラダイムと化した19世紀末セクソロジーの類とデズモンド・モリスの爽やかさを決定的に分かつ。そういう世紀末セクソロジーの一種と見られぬこともないフロイトの有名な口唇性欲論に対するモリスの対応が象徴的だ。

フロイトは口蓋癌にかかり、33回にわたる手術でその大部分を切除せねばならなかったので、彼と違って成人として口唇の喜びを享受できるというだけの理由で、そういう大人たちのことを、口唇に拘束され、乳房に固執し、幼児的であると考えた態度も許されるだろう。

氷解である!

ユーモアがあって(訳者はその点ばかり言う)、学問的にバランスがとれているというだけなら、この書評欄に取り上げはしない。各種エステ技術による女性の身体加工・変工にも、それらが最終的には女性個人の選択でなされる限りは、これも文化、これも長大な進化過程の一部と容認していて、それはそれでびっくりするが、回教圏の女児割礼に対しては「ぞっとする」と言って嫌悪をむき出しにし、その惨劇を知りながら手を打たぬ「国連など無能な組織の男性外交官や政治家たち」を激しく指弾し始める。モ、モリスさん、ど、ど、どうしたのっ?

毎年、200万人もの少女が泣き叫びながら押さえつけられ、麻酔もなしに、この残酷な手術に従わされている。切除する道具は、かみそりの刃、ナイフ、はさみといった粗雑なもので、非衛生的であり、たびたび死に至ることもあるが、その死はいつも揉み消される。割礼支持者は次の言葉で弁護する。「女性の割礼は神聖であり、それなしの人生は無意味である」。

「毎日3000人の少女が陰核」を切り取られている国があるという現実は、その直前に女性性器がいかに繊細な仕組みをしているか読んで感心した直後、もはや許せまい。他文化の妙な習俗はすべてそれと容認する冷静な科学者のこの突発する告発の激語には、やはり胸打たれるべきである。コーランに何も書かれていない以上、その「本当の理由は女性の性的快楽を減少させて、専制的な男性のパートナーに従属させやすくするため」と考える他ないだろう。

最後も「足フェチ王子の花嫁」シンデレラ物語をインスパイアした中国の纏足の告発で終わるが、「進化による生得権からかけ離れた、低い社会的地位に沈んだ女性たちの犠牲」は許さぬという気合が、変な動物行動学書をセクシュアル・ポリティクスの強烈書に変えた。

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