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『ホーソーン・《緋文字》・タペストリー』入子文子(南雲堂)

ホーソーン・《緋文字》・タペストリー

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珍しくヨーロッパ・ルネサンスに通じたアメリカ文学者の大なた

英米文学研究の世界で驚倒させられることはそう滅多にないが、入子文子という名からして優雅で遊びめくこの研究者の覇気は、確かに驚倒すべきものである。御本人があとがきでお書きのように、企業にお勤めの時期に参加した勉強会で知的刺激を受けたのに発して、あれよあれよという間に、ヨーロッパ・ルネサンスのヘルメス学的部分、とりわけその視覚的な表現(エンブレム学・図像学)に親懇し、やがて「アメリカン・ルネサンス」に目を転じ、ナサニエル・ホーソーンにこのヨーロッパ16、17世紀の異伝統を確かに認めるという壮大な構想を獲得した。

本書は結果的には少々辟易させられそうなアカデミー的な配慮と細かいテキスト読みの大冊になったが、方法としては、ヨーロッパ研究者が根拠なきプライドからアメリカを軽んじる一方、アメリカ研究者が意地と無知ゆえヨーロッパ(ましてその異貌部分)を理解せず、ゆえに生じる中間地帯、はざまの沃野を大胆に埋めてみせた、という存外単純なものである。自らの感覚に確信を持ち、的確に「芸域」を広げていく様子を語るあとがきが、あとがきの類には珍しく展開に納得がいき、好感を持てる。

洒落たテクスト=織布論が一時流行った。もともと「テクストゥス(Textus)」というラテン語は異要素を経(たて)糸、緯(よこ)糸として織り合わせたものを指したが、結局は引用三昧な文学なる言語構成体に他ならない。テクスト、イコール織布という、考えるほどに面白そうなメタファーを、大方の評論はそういうメタファーとしてしか使わない。しかし、『緋文字』はじめ作中の至るところにタペストリーを作<中>作(mise en abime)として取り込んでみせる、それというのも自身の根本的な方法がタペストリそっくりなものだから、というホーソーンのような相手に、これはただのメタファーで済むわけがない、というのが骨子である。

ただのメタファーに落とさない。ヨーロッパ・ルネサンスの宮廷の壁上を風靡した「もの」としてのタペストリーの織り方の技法・意匠を徹底的に浮かび上がらせる。半可通にわかった気分でメタファーに落とすのでなく、本当にゼロからタペストリーを考え詰めていって、これが“ut pictura poesis”[詩は絵のように] を言い、ルネサンスの「諸神混淆」そのままに雑多の世界、多彩な趣向をどんどん織り込むことのできる工芸世界であるということを納得させ、かくて言ってみれば同じ営みである「ロマンス」文学とこのタペストリーが全く「通底」するものであることをごく自然に得心させる。文章も絢爛。

 およそタペストリーの織り職人は、枠に張られた太い生成りの麻の縦糸(warp)に、ウールや絹の色糸や、金糸銀糸などの繊細な横糸(weft)を糸巻きで渡し、縦糸が表から見えなくなるまで櫛を用いて横糸をつめながら、横糸で美しく装飾的意匠を施して織り上げるという。細部にわたる絵画的技巧により、色糸のグラデーションが浅浮き彫り様の光と影の三次元的効果を生み出した点描の画法のごとき光をあらしめる壮麗な奢侈の品である。しかし織りが現出させるこれほど多量の光の存在にもかかわらず、タペストリーの各場面は黄昏の光に置かれ、血のたぎるような情熱を抑制した静謐の世界である。しかも織りの醸し出すどっしりとした触感が、単なる白い壁土の表面に描かれた平板なフレスコ壁画とは異なる落ち着きを伝えてくる。一つ一つのタブローと細部の図柄を追い、意味を考えながら歩を進め、一巡りして元の位置に戻り、全体を眺めては再び細部を確認する。ときには部屋の中央に立ち、終りを初めに、初めを終りに繋いで全体を見回す。過去・現在・未来にわたる異なる時間の出来事を一望のもとに収めたタペストリーの、物語の細部と全体の意味を巡って想像力が動き出す。外光を締め出し、抑えた人工照明で照らされた幽明の<タペストリーの間>は、訪れる人を瞑想に誘い込む囲われた小宇宙と化すのである。(p.47)

著者が現実に、過去のアメリカ史を回顧させるボストンのさる美術館で見た光景だそうで、これと同じものを『緋文字』中の悪役チリングワースの部屋に読み取らぬ方がおかしいというのが、そもそもの出発点となる。確かにおかしい、アメリカ文学界ってこれくらいのセンスもなかったの?と驚き呆れてしまうほど説得力ある議論だ。

ただのテクストではなく、図像を織り込むテクストである。織り込まれるのはおなじみ『緋文字』の「罪と罰」をめぐる様々に伝統的な図像――デューラーの『メランコリアI』他――だ。前に取り上げた伊藤博明氏E.ヴィントの教示した図像学の世界が文学的に展開される現場を目の当たりにする。岩崎宗治、藤井治彦といった碩学シェイクスピアに見、蒲池美鶴氏がウェブスターやフォードに認めた「リテラリー・イコノロジー」の驚くべき達成を、「無教養」と思い込んできたアメリカ文学の人が成し遂げたことに、ぼくはショックと異様な感動を覚えた。許されぬ愛のうんだ子、パールの真珠という「真円」の図像分析がルドルフ二世らのハプスブルク帝国へと飛躍する、まるでF.イエイツの『シェイクスピア最後の夢』じみた壮大な話になると、流石に眉に唾つけたくなるが、面白い。

期待通りの『アメリカの理想都市』でもそうだが、誰しも考えてもみなかった驚異の着眼がほとんど覇気とまで化しているところに、マダム・イリコの魅力がある。織布論に没頭中の田中優子氏、これを読むべしっ。

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