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『ドイツ文化史への招待-芸術と社会のあいだ』三谷研爾[編] (大阪大学出版会)

ドイツ文化史への招待

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ドイツ文学かて、やる人、ちゃんとおるやないの

ドイツ起源の悠々たる文化史(Kulturgeschichte)を英米圏でマスターし、それをドイツ文化史の側へ恩返しし、カフカ研究を一新したマーク・アンダーソンの『カフカの衣装』(1992)は、例によって英米と独に相わたる上、完全に新しいタイプの「学際的」著作だから、邦訳が急がれるにしろ、一体誰がやるか興味津々だったところ、三谷研爾氏がおやりになり(共訳ではある)、鷲田清一リードによる大阪大学大学院文学研究科が新人文の台風の目になりつつある新しい地図の確かな拠点のひとつが、この人であるのかな、と思っていた。

「いまや若い人たちには縁遠い存在となってしまったドイツ」にもう一度関心を持ってもらおうというオーガナイザー三谷氏の言い分はわかる。ぼく自身関わっている幾つかの大学で、若い人たちの文学離れは目を覆うばかりのものがあるが、とりわけドイツ語がひどいのは何故だろう。思うに、研究者の独りよがりの怠慢と保守保身の感覚に一因があるのではないか。英語と違ってドイツ語は初学という学生がほとんどなのに、ドイツ語教師は、教師としての立場が保証されている(フランス語の世界でも、しばらく「知の最前線」をデリダドゥルーズが「にぎやかし」ていたため、「頑張っている!」という幻想は確かにあった)ためか、全くサービス精神を欠いている。

部外者なりに見て、この十五年ほどドイツ人文学の動向のスピードと絢爛は一寸凄いものがある。先回、菊池良生氏の最新刊に触れてそのことを書いたが、そうした動向の適当な紹介者がなかなかいない現状はあまりと言えばあまり。唯一例外が田中純氏だが、彼だって表象論の人。ドイツ文学・文化史研究者はどうなっているんだ。と思う時、必ず脳裡に閃くのが、『カフカの衣装』に目をつけた三谷氏のことである。

それで今回作。三谷氏含む12人が分担執筆して独墺を含む広大な中東欧世界の文化史を17世紀から21世紀の今に至るまで概観し、「ドイツ文化史」げ「招待」しようというフェストシュリフト(論叢)である。いろいろな事情から、論叢形式の本が大流行で、本欄でも既に何点か取り上げたが、結局はオーガナイザーの構想力と、分担決定のイニシアティブが成否を分ける。それが弱いと、ひょっとしてかなりのレベルの寄稿エッセーが孤立して死んでしまう。この点から言えば、この『ドイツ文化史への招待』は実に見事な成功作と見た。

序では「中東欧」という地域を設定し、「文化」とは「芸術を軸として作り手と受け手、制度、意識がたがいに関連して織りなす活動のまとまりをいう」とし、「社会と文化、政治と芸術がときに相携えて、ときに鋭く対立しながらすすんでいった歴史を、あくまで文化や芸術の側から考えて」いきたいと述べる。一見、誰にでも言えそうなことだが、なかなか。この枠組みがないと各論文は四散してしまう。

第一部は「市民社会」がつくられていく時に印刷メディアや発掘された歌や口承文化が果した役割をテーマに5篇。四分五裂の「領邦」が雑誌文化や読書の普及を核に統一されていくプロセスを巧く描いた吉田耕太郎「啓蒙のメディア」は、菊池氏の郵便論と重ねて読んだせいもあって、実によくわかった。活字文化とくれば口承文化は?と思うとちゃんと「声の始源」(阪井葉子)が用意されており、民謡の発見が「イデオロギー装置」としての混声合唱協会をうむというところまでくると、音楽をめぐるビーダーマイヤー期の男女差別の印としての「ピアノのある部屋」(玉川裕子)が扱われ、一見関係薄に見えた昔の女流博物図絵師マリーア・シビラ・メーリアンを巡る赤木登代論文(「近代への飛翔」)が扱うロンダ・シービンガーのいわゆる「科学史から消された女性たち」ジェンダー問題につながっていたことがわかる。書き手が互いに何をどう書いているか知悉して、前の章で誰が言っているように、というスタイルで書いているので、コントロールの利いたバトンタッチが行き届いている。巽孝之編集の論叢について言ったのと同じことを、三谷人脈と三谷編集にも感じる。メディアの介在がナショナリズム勃興に決定的だったドイツと言えば、真打ちはやはりワーグナーだろう。藤野一夫「祝祭の共同体」がそれを務める。

第二部は「中東欧」の「文化」といえば避けて通れぬユダヤ人の存在を、樋上千寿氏の明快な概論(「聖書の民」)と、同化ユダヤ人といえばこの三人と言うべき作曲家メンデルスゾーン(小石かつら「対話から同化へ」)、詩人ハイネ(中川一成「境界の文学」)、そしてカフカの簡素な評伝(三谷研爾「存在と帰属」)で構成。これだけ限られた紙数で同化ユダヤ人問題のほぼ全貌を洗い出せていることに感心した。

第三部はモダニズムから現在まで。11名の同志を打って一丸とする三谷という人の真の関心は、知性と知性の交流史――山口昌男氏流に言う歴史人類学的コロニー論――であるはずと思って読むと、三谷研爾「カウンターカルチャーの耀き」、それと雁行してフランクフルト社会研究所と亡命知識人について論じた原千史「越境する批判精神」がそれを担っている。「ドイツ文化史」と聞いて期待したドイツ文化圏に固有の華やかな知性交流史への期待が十分に満たされた。アドルノやホルクハイマーといったレベルでの交流のみか雑誌編集というメディア世界での「交流」がフォトモンタージュをうむ、とする小松原由里氏のハンナ・ヘーヒ論は『キッチンナイフ』一点に絞った細密な解析が楽しい。楽しいばかりでなく、フランクフルト社会研究所が味わった苦しみ(原千史「越境する批判精神」)や、統一後の旧東ドイツの人々が背負うことになった十字架(國重裕「オスタルジーの彼方へ」)についても、十分リアルに伝わってくる。

「招待」のレベルを遥かに超え、全体としてなぜ「公共圏」(ユルゲン・ハバーマス)というメディアの工夫を重ねての意見交換の空間が「中東欧」にとって死活問題だったかの歴史が、実によくわかった。滅多にお目にかかれぬこのレベルの概説書をドイツ語で「クルトゥーア・ライゼフューラー(文化旅行ガイド)」と呼ぶそうだが、その見本のような一冊。

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