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『物語岩波書店百年史2 「教育」の時代』佐藤 卓己(岩波書店)

物語岩波書店百年史2 「教育」の時代

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「岩波文化の実像と虚像をたっぷりと描く」

本書336頁(第8章「午後四時の教養主義」)に岩波書店主催の文化講演会についてふれられている。1958年6月後半に新潟市両津市などで開催された、とされている。実はこのとき(6月22日)、会場両津中学校でこの講演を聞いていた1人がわたしである。高校2年生だった。岩波新書で知っていた清水幾太郎の姿をこの目で見、肉声に接したいと参加した。


大学2年生までは、文庫といえば、岩波文庫、新書と言えば岩波新書、総合雑誌といえば『世界』という岩波ボーイだった。1960年代あたりまでに学生生活を送った人には、岩波書店をめぐるそんな思い出がそれぞれにあるだろう。本書はそんな在りし日の思い出を振り返りながら読め、若い世代には、近代日本の知的文化の歩みをその象徴である岩波文化の実像と虚像から知ることができる格好な書である。

本書の内容に入ろう。本書は、1930年代から60年代までの岩波文化と岩波知識人を描いている。戦中期の出版文化や読書文化、言論統制、そして、戦後の平和問題談話会など、読者が岩波文化として思いだすものに目配りが十分なされているが、論述の焦点は、「教育」である。国民国家とは『教育国家』にほかならず、岩波書店は、「紙上の大学」として「教育国家の中核メディア、帝国大学とその機能を分有していた」からである。

しかし教育をめざしたといえば、岩波書店よりも「私設文部省」といわれた講談社を思い浮かべるだろう。そこで、著者は、大衆教育を目指した講談社は「初等教育局」(同時代用語では「普通学務局」)で、学術書中心の岩波は「高等教育局」(同時代用語では「専門学務局」)に該当するという。量的には前者が多いが、社会的威信では圧倒的に後者であろう、と。「高等教育局」の岩波書店であればこそ、岩波の講座などの執筆者は東京帝大や京都帝大などの官学教授が中心だった。

しかし、東京帝大や京都帝大の教授であれば無条件に執筆陣に加われたわけではない。岩波講座が帝大の講座よりも知識人に権威があったのは、帝大教授であれば、誰でもよいというのではなく、「帝大の無能教授を意識的に排除したためである」という卓見を披露している。たしかに、そうであればこそ、岩波が官学アカデミズムの権威を借用しながらも岩波アカデミズムがそれを上回るかたちで聳え立っていたわけである。

しかし、戦後は、岩波のまなざしは「子どもへ、家庭へ、教育へ」向けられ、「岩波少年文庫」などで講談社をしのぐ岩波「初等教育局」を設置したような恰好になった。戦後最初の「岩波講座」も『岩波講座 教育』(1952~53)全8巻であった。戦後啓蒙とは、大衆啓蒙だったからである。

しかし、こうした教育戦略が奏功したのは60年までではなかったか、と著者はいう。『岩波講座 現代教育学』全18巻が刊行されたのは1960~62年だったが、この講座の読者カードをみると、都会より地方、とくに僻地で読者が多かった。都会の教育関係者には、読まれなくなっていたのである。『世界』や『図書』の読者カードによって読者層をみると学生、教員、公務員が多い。ビジネスマンは少ない。60年代からの岩波文化の衰退は、教育の時代から経済の時代になったからであろう。

本書には、岩波文化に対して人々が抱いている多くのイメージが資料をもとに覆されている。『日本資本主義発達史講座』が売れたのは、左傾学生よりも、大蔵省などの官庁方面だったこと。事前検閲は検閲強化というよりも出版社がリスクを避けるに都合がよかったこと。非常時になって出版事業は1942年までは空前の好景気にわいていたこと。岩波にも、時局便乗出版物も多かったこと。陸軍省は恤兵(じゅっぺい)品(戦地の兵士の慰問品)として岩波文庫を大量注文していたことなどなど。さらに忌憚なく岩波の社史の間違いも指摘している。

丹念な資料収集(「遠心力」)と斬新な解釈(「求心力」)という二物をそなえた著者一流の才覚が通念砕きの速射砲となり、まことに巻を措くあたわずとなる。

本書をよみながら、評者はこんなことも思った。これから岩波文化なるものが持続できるとしたら、経済人などの実務家に訴求力ある本を出せるかどうかにかかっているのではないか。ビジネス書と岩波文化という、「鰻と天ぷら」のように食い合わせが悪いものにどう立ち向かうかであろう、と。

なお、本書でも数か所にわたって引用されている村上一郎岩波茂雄』は、12月上旬に講談社学術文庫で復刻版(『岩波茂雄と出版文化―近代日本の教養主義』)が刊行される。歯に衣を着せぬところは本書と同じである。解説は評者が書いているが、本書と併読していただくと、幸甚である。


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